2010 年 4 月

東京都現代美術館「フセイン・チャラヤン」など


東京都現代美術館で「フセイン・チャラヤン ファッションにはじまり、そしてファッションへ戻る旅」を観ました。フセイン・チャラヤンの名前は聞いたことがあっても、そのクリエイションについてはよく知りませんでした。どこで買えるのかも知らないし、どういう服で、なにが評価されているのかも。

コンテンポラリ・ファッション(という言い方があるのかはわからないが)の展示は年に何度もないので、こういう機会は逃せないです。Twitterのポストをみると評判はいいし、休日だし、昨日の某新聞の特集で取り上げられていたから「きっと混んでるだろうな」と思って15時ごろ東京都現代美術館に到着するとガラーンとしてました。開催中の展示が「フセイン・チャラヤン」と常設展だけにしても人が少ない。

しかし展示室に入るとそれなりに人はいましたね。シャレオツどもが!映像展示が多かったので人の流れが滞りがちでした。映像ブースがちょい狭いような気がした。インスタレーション系はゆったりみれたけども。

ファッションの展示ってドールに服着せて並べて、コレクション映像のブースがあって…って単調になりがち。でも今回の展示は服の展示っていうよりも、インスタレーション作品の展示ですね。フセインチャラヤン本人はインタビューで「自分はファッションデザイナーではなくファッションアーティスト」というようなこと言っており、フセインチャラヤンというアーティストの個展ですね、これは。

映像作品は比較的多い印象。内容は外人っぽいというかファッションっぽいというか、特にオチもスペクタクルもなく「アート」って感じ(いや、嫌いじゃないですよ)。複数台のプロジェクターを使用してたり、映像を同期させていたり、見せかたはとても豪華だった。見せかたをきちっとさせているところはデザイナーって感じがした。

印象的だったのは《111》ってタイトルの2007年のコレクション映像(←もしかしたらタイトル間違ってるかも)。自動でドレスが動くやつ。まあコレクションの映像をブースで流しているだけなんだけど、感動した。それといちばん最後にあったLEDのドレス。ただLEDが光ってますってところで終るんじゃなくて、美として昇華されてると思った。あとはその前にあったレーザー光線が出てるドレスも印象的だった(最初の写真)。多摩美でいうとテキスタイルと情報が合体したような展示。大学の中でこういう作品がでてくるようにするには、学科の枠をとっぱらう必要はあるかもしれないですね。このへんの映像はyoutubeでHussein Chalayanで検索するとたくさん出てきます。



あとは常設展の「Plastic Memories | いまを照らす方法」。これはみたほうがいいですね、絶対!
全体的に空間もゆったりしていて見やすい。そしてボルタンスキーやら松本竣介やらの作品も見れて悪くないんですが、最初の展示室にある山川さん(山川冬樹)の作品がヤバい。昨年のヨコハマ国際映像祭にも出展されていたそう。自分は初見でした。とりあえずあまの感動に泣いた。ほんと、見て欲しいなー。

あとは最後の前田征紀の作品。これも良かった。不思議で、作品の周りをうろうろしちゃう。たんなる立体じゃなくて音楽が流れてるのも良かった。前田征紀ってだれ?って思ったらコズミックワンダーのデザイナーでしたね….。多才だな….。

というわけで今期の東京都現代美術館はなかなかイイ感じでした。
にしてもゴールデンウィークはみたい展示があり過ぎて困ります。

カオスラウンジ(後)

かなり時間が経ってしまいましたが前回からの続きです。
このときのustreamはアーカイブ化されています。

GEISAI大学放課後 01 「やはりカオスラウンジとは何か?」
http://www.ustream.tv/recorded/6219906

GEISAI大学放課後 02 「やはりカオスラウンジとは何か?」
http://www.ustream.tv/recorded/6267744

東浩紀が登場したのはの 1:14:00ころから。未見のかたはこのあたりからみると、一連の状況が掴めるかと思います。改めてアーカイブを見ると、自分が見始めたのはそれから数分後だったので、あずまんの登場からそんなに時間は経ってなかったですね。


何をどう書こう…と自分が考えている間に、最後のGEISAI大学からもはや10日以上が経過して、にわかにweb上のアートクラスタを賑わせたこの一連の出来事も一段落しました。ツイッターのポストをみても、カオスラウンジに関わった人たちは次のステップに進もうとしているとはずだし、このユーストリームの内容についてあらためて自分が説明することもないです。

時間が気持ちを冷静にさせました。前回の記事から今回の記事をアップするまで、カオスラウンジについていくつか書いたことはあったけれど、ほとんど削除しました。でもこれで終ると物凄く中途半端なので、とりあえずなんか書きます。



カオスラウンジの展示をみたとき、どことなく既視感があった。しばらく思い出せなかったのだけど、この記事を書き始めて思い出しました。それは松井みどりのキュレーションによる「マイクロポップ」です。

10ヶ月ほど前、多摩美術大学に特別講義で松井みどりがきました。そのときはもう自分は卒業していたけれど、個人的な興味から講義を聞きに行きました。というのも、当時ポスト・スーパーフラットといわれた「マイクロポップ」という概念、及びマイクロポップ的な作品による「ウィンターガーデン」という展示について聞きたいことがあったからです。

このときの内容は私の以前のブログに掲載しているので、気になる人は読んでみてください。



「マイクロポップ」という概念と「ウィンターガーデン」という展示については、個人的にはやっぱり成功とはいえないんじゃないかって思ってます。既存の作家を集めて「マイクロポップ」という言葉で括るのには無理があった。コンセプトは、まあ、理解できる。でも肝心な作品や展示に感動はなかった。個々の作品は悪くないのかもしれないが、その集合体としてみたとき、あまりに脆弱過ぎる気がした。

「マイクロポップ」の説明を読んでいると「カオスラウンジ」との共通点がけっこうある気がします。例えば「社会的無名性や経済力の欠如を力に変える」ことや「ドローイングが主要な表現方法」であったり「60年代的ポップ表現のリバイバル」が見られたり…。たとえば「カオスラウンジ」にあった作品が、そのまま「ウィンターガーデン」に飾ってあってもそこまで違和感はないんだと思う。



先の講義の最後に、自分は松井さんに「展覧会を構成する作品に、観客を「行動」に結びつけるような力がないように思うのですが、あると思っていますか?」という質問をした。このとき松井さんはかなりムッとしていた(質問の内容以前にこの聞き方に問題があるのだが)。

このとき私の発言した「行動」という言葉を、松井さんは「政治的活動としての行動」と判断して答えを返してきた。自分の意図としては、「行動」という言葉はもう少しユルい意味として使っていて、「あー、良い作品をみたな。自分も頑張ろう。」とかその程度のことだった。それこそ、松井さんが最後に言っているように「人のこころに今までに無い感覚を起こさせるというのは、芸術にとってできる最も効果的な世界の変革なんじゃないかなと思っています」とほぼ同じ意味で、自分は「行動」という言葉を使っていた。

自分は水戸芸術館「マイクロポップの時代」や、原美術館「ウィンターガーデン」を見て、ぜんぜん自分のなかに変革は起きなかった。むしろちょっとムカついたんです。たしかに現代の姿を提示しているかもしれないが、あそこには未来がなかった。なんだか自分たちの世代やこの時代がバカにされている気がしました。(とうぜん松井さんにその意図は全くないことはわかっているけれど…。)(というか、マイクロポップは周りが騒ぎすぎたと思う。そもそも元・文学少女のマニアックなセンスなんて一般大衆に理解できるわけないだろが!)

「カオスラウンジ」での既視感とは、「マイクロポップ」のをみたときの「コンセプトは理解できるけど作品はそーでもないな」っていうところかもしれません。でも「カオスラウンジ」は、ちょっとキャリアがあるキュレーターが若い作家を集めて「これからの時代はこうです」っていうんじゃなくて、若い世代の人が、無名に近い同じくらいの世代の人を集めて「これからの時代はこうだぜ」っていう周囲を巻き込んで吸収していくようなウネリ、その「祭り」感に惹かれたんだと思います。



あの伝説的なユーストリームの中で一番忘れられないのは「向こう側」の話をし始めたときの梅ラボさんです。美術に対して真剣で真面目で、自分の言葉で喋ろうとしていて思わず応援してしまった。

同時に、自分たちの世代の弱点は、純粋で優しすぎることかもしれないとも思った。chim↑pomにしたって「ピカッ」までは悪童としてやっていたけど、「なぜ広島の空をピカッとさせてはいけないのか」を読む限りでは、彼らは自分たちとなんら変わりない、むしろとても正直で真面目な人たちだったということがわかってしまった。自分たちが受けてきた学校教育や社会生活のなかで、自分たちは「叫びかた」を去勢されてるんじゃないか。

個人的な話で恐縮ですが、自分の大学院の卒業制作の講評会での失敗も、そこらへんの「何か」を信じ過ぎていたことだったと思う。ちょっと良い話をして、理解を得ようとしてしまった。それがダメだった。あのときの教授陣たちのまるきり冷めた目の中でパフォーマンスした経験は忘れられない。「お前らの作品はクソだ、いつまでも高度経済成長期やバブル時代の成功体験を引きずったままのアーティスト気取りが大学の給料で偉そうにしやがって!」そう言って卒業するのが正解だったといまでも後悔している。尊敬の意を込めて死んでくださいと。けっきょく大人はわかってくれないんです。

「カオスラウンジ」はいよいよ村上隆の手を離れて動き始めたんだと思います。カオスラウンジ参加メンバーのツイッターでのポストをみても最近イキイキしてる気がします。何様と思われるかもしれませんが、やっと地に足がついたようにみえます。個人的にはあまり美術界という狭い世界での評価を気にしないほうがいいのかなとも思いますが、ま、わかりません。ここまで数回にわたって「カオスラウンジ」をネタにしておいて、いまさら「頑張れ」とか「応援してる」とか言える立場じゃないですし。でも、次ですよね。次こけたら、もう、ないです。ここまできたなら、もう行くとこまで行った姿がみてみたいです。



とりあえずこれで自分のカオスラウンジについてのインプレッションは終ります。
好き勝手書いてごめんなさい。

カオスラウンジ(中)

前半からの続き。



高橋コレクション日比谷を出て、このカオスラウンジの展示をどう捉えるべきなのか考えていた。この時点で今回の展示を判断することは自分には難しかった。そのとき唯一言えたことがあるとすれば「なんだ、そう遠くにはいっていないじゃないか」ということだった。注目度を除けば、彼らが時代の中で突出して先端にいるわけではなく、作品も作品の見せかたも自分たちとそう変わらない位置にまだいる。そう思った。なんにせよ、翌日のGEISAI大学で黒瀬さんの講演を聞きに行くから、まずはそれからでないと判断は難しかった。

仕事をおえて家に帰ると、村上隆がGEISAI#14のときのように翌日のGEISAI大学をパワープッシュしていた。そのときにわかったのは、村上隆って人は事前にとにかくハードルを上げ、その高いハードルに自分を合わせて「出来事を作っていく」人なのだということだ。村上隆は翌日の講演をアオって盛上げているけれど、Twitterの発言をみる限りでは、村上隆自身も黒瀬さんが翌日の講演でなにを話すかは知らないようだったし、それでこのアオりかたなのだから「この人マジで怖い」と思ったし、同時に「マジでスゴい」とも思った。



そして翌日。自分は今回のGEISAI大学、第1週目の福嶋亮大さん、第2週目の浜野智史さんの講演も受講してました。そして3週目、トリとして黒瀬陽平さんの講演を聞きにいきました。

まずは「カオスラウンジ2010in高橋コレクション日比谷」という展覧会についての説明。カオスラウンジの始まりや模造紙オフについて。自分なんか、いち観客として痛くない、リスクのない立場からなんだかんだ言ってブログのネタにもしてるけど、この人たちの積極的な行動力ってやっぱすごいです。著名人から注目されているのもこの行動力があるからでこそなわけで。それがあるから、みんなあーだこーだ言うけど否定はしないんですよね。ただ「ポストポッパーズ」っていう固有名詞が一度も出てこないところは気になりましたね。そこに意図はないのかもしれないけれど。

後半はキャラクター論ともいえる話の展開と、今回のカオスラウンジと関連する作家として奈良美智を挙げて、作家論みたいな話。自分はここで「アレ?」って思いました。奈良美智の作家論としては楽しく聞けました。が、これは批評家が話すべきことであって、キュレーター自身が言ってしまったら面白くないのかなと。そして奈良美智(と、その他の作家)を挙げたことで、カオスラウンジは結局アートの世界と接続したかったのか、カオスラウンジが目指すところはそこだったのかって思い、自分の中でとたんにカオスラウンジの「祭り」感が矮小化してしまいました。過去へのディスではなくて、コネクトしたがってる感じに「なあんだ…」と。時間も延長して最後はちょっとグダってた。たぶん「聞きたいのはそこじゃないよ!」って感じてた人も多かったと思う。



自分は講演が終わったの質問コーナーでふたつ質問をした。自分も緊張してうまく質問が言えなかったところもあるけれど、聞きたかったことは高橋コレクションの作品が会場の中ではっきりと分かれて展示してあったけどあれは不可抗力(作品の扱いなどの条件)でああなったのか、意図的なものか。ということと「カオスラウンジのビジョン、というか将来的な夢はなにか。(たとえばグッゲンハイムで展示することだとか、またはそれぞれの作家が食べていけるようになるだとか)」ということ。

…質問に対して明確な答えは返ってこなかった。
質問の答えに対して「自分は馬鹿なんで理解できませんでした、もっと勉強します」という言葉を、半分は本音として、半分は嫌みとして言おうと思ったけど止めた。まあ、質問に対して意図した答えが返ってくることを期待するわけでもないんだけど、もうちょっと質問と答えが噛み合って、納得して終りたかった。

(余談だが、村上隆に話をふられた椹木野衣が、やんわりとあの場での発言を避けたのは最高に格好良かった。あとぜんぜん関係ないけど多摩美だとあの椹木野衣が「のいのい」って感じで愛されキャラ扱いされててウケる。むしろ椹木野衣って誰?状態だったり。教授に昇格しておめでたいと思う反面、准教授という微妙なポジションのほうがのいのいのキャラに合ってそうな気がした。)

それで最後の締めの言葉で村上隆が「GEISAI大学はこれで終わりにしようかと思ってる、これからはGEISAI放送大学にしようかと思ってる」みたいなこと言い出して「えーっ!?」って。最後の最後がこれでいいの!?納得したの!?って。講演会終了後、関係者でさらにカオスラウンジについてユーストリームをするって言ってたけど、それは正直見る気がしなかった。議論というよりかは打ち上げ会になりそうで、言い方が悪いけれど内輪褒めになることはなんとなく想像がついた。



そんなわけで自分は消化不良のまま家路についたわけです。展示を見た段階では保留にしておいた判断ですが、さらにモヤモヤとしました。ただこれは彼らの物語であって、自分(たち)の物語ではないという(当然のこと)に気がつきました。カオスラウンジをどこかで「わたしたちの物語」としてみていた部分があったのかなと。とりあえず頭を整理するために、今回のカオスラウンジ及びGEISAI大学での講演についての周りの反応が知りたいと思いました。

帰宅し遅い夕食をとってからTwitterを開くと、「(カオスラウンジのユーストリームが)なんかすごいことになってる」というような書き込み。どれどれ、と思ってustに繋いでみると、あずまんが怒ってた。

続く。

ワタリウム美術館「ジョン・ルーリー展」

先週はカオスラウンジ以外にもぼちぼち展示をみました。
まずは外苑前のワタリウム美術館でJohn Lurie(ジョン・ルーリー)の個展。
この展示、開催期間は長いけどあんまり感想を聞かないから期待せず行ったんだけど、良い展示でした。



ジョン・ルーリーの絵は大きい白い壁やコンクリート打ちっぱなしの壁に似合いそう。
アメリカの大邸宅とか、レストランに飾ってありそうな。
バスキアのように美術史からはちょっとハズれてるけど、富裕層のアート好きには人気があっていかにも売れそうな絵。(※補足 ジョン・ルーリーはバスキアと一緒に絵を描いていた時期があったらしい)
コンセプトに凝ったり、苦悩して作品を生み出す感じではなく、もともとがミュージシャンだからか「呼吸をするように」絵が生み出されている感じ。世に出す作品の裏でどのくらいの作品数がボツってるのかは定かではないけれど、もうほぼセンスで描けちゃってる。

絵を読み解く必要はなく、色彩の美しさや、絵の具のマチエールに陶酔すればいいので気は楽。逆にいえば自分なんかは「軽いな〜」と思った部分もあり、まあ4〜5枚ちゃんとみてあとは流してみればいいっしょとか思ってしまった。まあ、こういう魅力を言語化できない絵、つまり自然の景色のように「ただキレイ」なことで成り立っている絵こそ感動をお持ち帰りできないことも事実なので、足を運んでみることは重要だと思いますが….。


「あー、絵ってやっぱ良いな」って思える展示だと思うので、直接参考にはならないかもしれないけれど、視野が狭くなりがちな受験生にもみてもらいたいな。とはいえみんなが絵の具を滲ませてユルユルの絵を描いたらショック。展示は5月16日まで。ゴールデンウィークにどうぞ。デート向きの展示かもしんない。

カオスラウンジ(前)

先週、高橋コレクション日比谷で「カオスラウンジ」をみてきた。この展示については開催されるまえから複雑な感情があった。思ったこと、考えたことを正直に書きます。



今年の始めにカオスラウンジという展示が4月に開催されると知ったとき、とても興奮した。理由はキュレーションをした黒瀬陽平さんが自分の職場の同僚ということもあったし、出展作家の梅沢和木(梅ラボ)さんともネット上での絡みやリアルワールドでも何度かお話をしたことがあり、また共通の知り合いなどもいて、遠くないところにいる人たちが開催するということに他人事ではないものを感じたのだった。

そしてそれが、村上隆や東浩紀というアートや批評の世界の実力者たちからも注目されているということ。自分は美術大学の学生のころ「リトルボーイ」のテキストにシビれ、図書館で付箋を貼り、コピーをとり、マーカーで線を引き、ファイリングし、いまもすぐ手元の本棚に置いてある。関連する書籍も何冊も読んだ。なので自分のアート感は少なからず村上隆の影響はうけていると思う。有名になりすぎたおかげで「村上隆(笑)」みたいな風潮も一部にあるけれど、彼の功績を功績を理解しない人、揶揄する人、好き嫌いだけで作品を判断する人などと話すたびに「ぜんっぜん分かってない!」などと思ったものです。

自分たちの生きる時代を体現した作家/作品がやっとアート界に登場しそうな予感に胸を躍らせながらも、東浩紀、村上隆などの人々から注目されていることは羨ましくもあり、そこには嫉妬のような感情もあったと思う。



でも、そのあとGEISAI#14に初出展してから興奮は少し冷めた(詳しくは前の記事を参照)。理由としては、村上隆のTwitterでのGEISAI#14およびカオスラウンジの煽りと、実際の盛り上がりにギャップを感じてしまったことがある。当日が迫るにつれてTwitterの村上隆と周辺のクラスタのポストは盛り上がっていった。自分がその盛り上がりから物凄い熱狂とアートシーンの変革のようなものを期待したが、以前の記事でも書いたように、当日はそれほどまで熱狂していなかったし、どちらかといえばスベっていた(ように自分には感じられた)。

それでもGEISAI#14後の村上隆やカオスラウンジ・クラスタのポストをみる限りでは、当事者たちは「成功」と認識していたようで、その温度差に違和感があった。



自分にとって、カオスラウンジを冷静に、客観的に捉える出来事として決定的だったのは「思い出横丁派」との飲み会だった。

たまに聞かれるのであらためて説明すると、「思い出横丁派」とは谷口暁彦と渡邉朋也による「たにぐち・わたなべの思い出横丁情報科学芸術アカデミー」の通称であり、彼らは「夜ごと思い出横丁に集まってはメディアアートについての思索と実践を行っているいわば場末のメディアアーティスト」ということです。

彼らは「カオスラウンジ」について懐疑的だった。飲み会の席のことなので記憶が曖昧なところもあるけれど、特に印象的だったのが、たにぐちの「結局は彼らは(絵が)上手くないじゃん」という言葉だった。(わたなべの「最終的には殴り合いで勝ったほうが偉い」という発言も印象的だったが。)

ほかにも思い出横丁派と話してハッとしたところが多々あった。それまで、Twitter上で「カオスラウンジ」について否定的な意見はほとんど見当たらず(それには村上隆や東浩紀といったカオスラウンジに関連する人物の影響が多大に関係していると思う)、自分も流されていたのだが、思い出横丁派は冷静にその動向を観察し、分析していた。

そもそも思い出横丁派が「カオスラウンジ」に対してそこまで反発を抱いていたのには理由があるみたいだった。それは彼らの企画したweb上での展覧会「redundant-web」が、カオスラウンジのキュレーターである藤城嘘にTwitterで「80年代みたい」などと評価されたことがきっかけらしい。それで「どっちが80年代だよ!」「おまえのほうが80年代的な表現だろ!」と思い、そのような出来事が彼らをアンチ・カオスラウンジの道に進ませたのだろう…。(いや、しかし実際彼らのメディアやアートへの批評的なまなざしは、とてもレベル高いと思いますよ。)

自分はそういうわけで、GEISAI#14で盛り上がりの温度差を実体験として感じたことと、思い出横丁派を見習って、「カオスラウンジ」の動向をちょっと冷静に見なければ、と思ったんです。なによりもまず実際の高橋コレクションでの展示を見てからだ、と。



そしてついに先日、日比谷の高橋コレクションで「カオスラウンジ」をみてきた。

展示会場に入ったときにまず思ったのは「汚ねえ!」ということ。それは否定的な意味ではなく、デ・クーニングやオルデンバーグの作品を彷彿とさせるグロテスクさだった。その「グロテスク」な部分に関しては特に言及がなく、「カオス」であることと「グロテスク」であることは必ずしもイコールではないと思うので、なぜ彼らがアニメキャラクターをあのように表現するのか考えてしまった。

もちろん会場右側に展示されていた村上隆や高嶺格、伊藤存といった「価値の定まった」作家たちとの対比としてみれば、カオスラウンジ・クラスタの作品は「(金銭的に)無価値であること」に作家自身が開き直っているようで、そういう対比がテーマの展示なのかなと考えることもできるのだが…。自分は過去の作品と「ぶつけ合う」のではなく、過去の作品を「飲み込む」ようなものを期待していたので、あのような見せかたは自分のなかで意外だった。

「つかさをつくろう!(再現)」という作品は、個人的にはオルデンバーグのアイスクリームコーンというポップ・アイコンを巨大化させた作品にそっくりだと思った。



外見上はから受ける印象としては、モチーフにするアイコンが「アイスクリームコーン」か「(らき☆すたの)つかさ」であるかの違いでしかない。たぶんあの作品のキモはネット上の人々が集まってノープランでつかさを制作した、というコミュニケーションの問題が重要だと思うので、その過程こそがキモなので、その部分がもっと見たいと思った。

展示をみながら、自分の脳裏には思い出横町派・たにぐちの「どっちが80年代だよ!」という言葉が思い浮かび、たしかに作品にそれほどの斬新さはないのかなと思った(というか、むしろデ・クーニングやオルデンバーグは50〜60年代の作家なのだが….)。

ただ、同じ「つかさ」でも、つかさの黄色いリボンをモチーフにした作品、あれは凄く良かったと思う。個人的にはあの作品が良かった。あの黄色いリボンこそが「つかさ」というキャラクターのコアで、「つかさ」自身はあの黄色いリボンの宿主でしかないのだということを感じさせた。さなぎから羽化する蝶のような造形は恐ろしくもあった。(似たような作品でこなたver.もあったけれど、それにはつかさほどのおぞましさを感じなかった。)

展示をみたのは15分〜20分ほど。本当は黒瀬さんや梅ラボさんに詳しく今回の展示の意図を聞きたかったけれど、忙しそうだったので聞けず。この翌日に自分は「GEISAI大学」に行って黒瀬さんの講演を聞き、帰宅後あの伝説的なユーストリームを深夜まで見ることになるのだが、それについての感想はまた次回。続く。