カオスラウンジ(前)
先週、高橋コレクション日比谷で「カオスラウンジ」をみてきた。この展示については開催されるまえから複雑な感情があった。思ったこと、考えたことを正直に書きます。
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今年の始めにカオスラウンジという展示が4月に開催されると知ったとき、とても興奮した。理由はキュレーションをした黒瀬陽平さんが自分の職場の同僚ということもあったし、出展作家の梅沢和木(梅ラボ)さんともネット上での絡みやリアルワールドでも何度かお話をしたことがあり、また共通の知り合いなどもいて、遠くないところにいる人たちが開催するということに他人事ではないものを感じたのだった。
そしてそれが、村上隆や東浩紀というアートや批評の世界の実力者たちからも注目されているということ。自分は美術大学の学生のころ「リトルボーイ」のテキストにシビれ、図書館で付箋を貼り、コピーをとり、マーカーで線を引き、ファイリングし、いまもすぐ手元の本棚に置いてある。関連する書籍も何冊も読んだ。なので自分のアート感は少なからず村上隆の影響はうけていると思う。有名になりすぎたおかげで「村上隆(笑)」みたいな風潮も一部にあるけれど、彼の功績を功績を理解しない人、揶揄する人、好き嫌いだけで作品を判断する人などと話すたびに「ぜんっぜん分かってない!」などと思ったものです。
自分たちの生きる時代を体現した作家/作品がやっとアート界に登場しそうな予感に胸を躍らせながらも、東浩紀、村上隆などの人々から注目されていることは羨ましくもあり、そこには嫉妬のような感情もあったと思う。
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でも、そのあとGEISAI#14に初出展してから興奮は少し冷めた(詳しくは前の記事を参照)。理由としては、村上隆のTwitterでのGEISAI#14およびカオスラウンジの煽りと、実際の盛り上がりにギャップを感じてしまったことがある。当日が迫るにつれてTwitterの村上隆と周辺のクラスタのポストは盛り上がっていった。自分がその盛り上がりから物凄い熱狂とアートシーンの変革のようなものを期待したが、以前の記事でも書いたように、当日はそれほどまで熱狂していなかったし、どちらかといえばスベっていた(ように自分には感じられた)。
それでもGEISAI#14後の村上隆やカオスラウンジ・クラスタのポストをみる限りでは、当事者たちは「成功」と認識していたようで、その温度差に違和感があった。
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自分にとって、カオスラウンジを冷静に、客観的に捉える出来事として決定的だったのは「思い出横丁派」との飲み会だった。
たまに聞かれるのであらためて説明すると、「思い出横丁派」とは谷口暁彦と渡邉朋也による「たにぐち・わたなべの思い出横丁情報科学芸術アカデミー」の通称であり、彼らは「夜ごと思い出横丁に集まってはメディアアートについての思索と実践を行っているいわば場末のメディアアーティスト」ということです。
彼らは「カオスラウンジ」について懐疑的だった。飲み会の席のことなので記憶が曖昧なところもあるけれど、特に印象的だったのが、たにぐちの「結局は彼らは(絵が)上手くないじゃん」という言葉だった。(わたなべの「最終的には殴り合いで勝ったほうが偉い」という発言も印象的だったが。)
ほかにも思い出横丁派と話してハッとしたところが多々あった。それまで、Twitter上で「カオスラウンジ」について否定的な意見はほとんど見当たらず(それには村上隆や東浩紀といったカオスラウンジに関連する人物の影響が多大に関係していると思う)、自分も流されていたのだが、思い出横丁派は冷静にその動向を観察し、分析していた。
そもそも思い出横丁派が「カオスラウンジ」に対してそこまで反発を抱いていたのには理由があるみたいだった。それは彼らの企画したweb上での展覧会「redundant-web」が、カオスラウンジのキュレーターである藤城嘘にTwitterで「80年代みたい」などと評価されたことがきっかけらしい。それで「どっちが80年代だよ!」「おまえのほうが80年代的な表現だろ!」と思い、そのような出来事が彼らをアンチ・カオスラウンジの道に進ませたのだろう…。(いや、しかし実際彼らのメディアやアートへの批評的なまなざしは、とてもレベル高いと思いますよ。)
自分はそういうわけで、GEISAI#14で盛り上がりの温度差を実体験として感じたことと、思い出横丁派を見習って、「カオスラウンジ」の動向をちょっと冷静に見なければ、と思ったんです。なによりもまず実際の高橋コレクションでの展示を見てからだ、と。
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そしてついに先日、日比谷の高橋コレクションで「カオスラウンジ」をみてきた。
展示会場に入ったときにまず思ったのは「汚ねえ!」ということ。それは否定的な意味ではなく、デ・クーニングやオルデンバーグの作品を彷彿とさせるグロテスクさだった。その「グロテスク」な部分に関しては特に言及がなく、「カオス」であることと「グロテスク」であることは必ずしもイコールではないと思うので、なぜ彼らがアニメキャラクターをあのように表現するのか考えてしまった。
もちろん会場右側に展示されていた村上隆や高嶺格、伊藤存といった「価値の定まった」作家たちとの対比としてみれば、カオスラウンジ・クラスタの作品は「(金銭的に)無価値であること」に作家自身が開き直っているようで、そういう対比がテーマの展示なのかなと考えることもできるのだが…。自分は過去の作品と「ぶつけ合う」のではなく、過去の作品を「飲み込む」ようなものを期待していたので、あのような見せかたは自分のなかで意外だった。
「つかさをつくろう!(再現)」という作品は、個人的にはオルデンバーグのアイスクリームコーンというポップ・アイコンを巨大化させた作品にそっくりだと思った。

外見上はから受ける印象としては、モチーフにするアイコンが「アイスクリームコーン」か「(らき☆すたの)つかさ」であるかの違いでしかない。たぶんあの作品のキモはネット上の人々が集まってノープランでつかさを制作した、というコミュニケーションの問題が重要だと思うので、その過程こそがキモなので、その部分がもっと見たいと思った。
展示をみながら、自分の脳裏には思い出横町派・たにぐちの「どっちが80年代だよ!」という言葉が思い浮かび、たしかに作品にそれほどの斬新さはないのかなと思った(というか、むしろデ・クーニングやオルデンバーグは50〜60年代の作家なのだが….)。
ただ、同じ「つかさ」でも、つかさの黄色いリボンをモチーフにした作品、あれは凄く良かったと思う。個人的にはあの作品が良かった。あの黄色いリボンこそが「つかさ」というキャラクターのコアで、「つかさ」自身はあの黄色いリボンの宿主でしかないのだということを感じさせた。さなぎから羽化する蝶のような造形は恐ろしくもあった。(似たような作品でこなたver.もあったけれど、それにはつかさほどのおぞましさを感じなかった。)
展示をみたのは15分〜20分ほど。本当は黒瀬さんや梅ラボさんに詳しく今回の展示の意図を聞きたかったけれど、忙しそうだったので聞けず。この翌日に自分は「GEISAI大学」に行って黒瀬さんの講演を聞き、帰宅後あの伝説的なユーストリームを深夜まで見ることになるのだが、それについての感想はまた次回。続く。