カオスラウンジ(後)

かなり時間が経ってしまいましたが前回からの続きです。
このときのustreamはアーカイブ化されています。

GEISAI大学放課後 01 「やはりカオスラウンジとは何か?」
http://www.ustream.tv/recorded/6219906

GEISAI大学放課後 02 「やはりカオスラウンジとは何か?」
http://www.ustream.tv/recorded/6267744

東浩紀が登場したのはの 1:14:00ころから。未見のかたはこのあたりからみると、一連の状況が掴めるかと思います。改めてアーカイブを見ると、自分が見始めたのはそれから数分後だったので、あずまんの登場からそんなに時間は経ってなかったですね。


何をどう書こう…と自分が考えている間に、最後のGEISAI大学からもはや10日以上が経過して、にわかにweb上のアートクラスタを賑わせたこの一連の出来事も一段落しました。ツイッターのポストをみても、カオスラウンジに関わった人たちは次のステップに進もうとしているとはずだし、このユーストリームの内容についてあらためて自分が説明することもないです。

時間が気持ちを冷静にさせました。前回の記事から今回の記事をアップするまで、カオスラウンジについていくつか書いたことはあったけれど、ほとんど削除しました。でもこれで終ると物凄く中途半端なので、とりあえずなんか書きます。



カオスラウンジの展示をみたとき、どことなく既視感があった。しばらく思い出せなかったのだけど、この記事を書き始めて思い出しました。それは松井みどりのキュレーションによる「マイクロポップ」です。

10ヶ月ほど前、多摩美術大学に特別講義で松井みどりがきました。そのときはもう自分は卒業していたけれど、個人的な興味から講義を聞きに行きました。というのも、当時ポスト・スーパーフラットといわれた「マイクロポップ」という概念、及びマイクロポップ的な作品による「ウィンターガーデン」という展示について聞きたいことがあったからです。

このときの内容は私の以前のブログに掲載しているので、気になる人は読んでみてください。



「マイクロポップ」という概念と「ウィンターガーデン」という展示については、個人的にはやっぱり成功とはいえないんじゃないかって思ってます。既存の作家を集めて「マイクロポップ」という言葉で括るのには無理があった。コンセプトは、まあ、理解できる。でも肝心な作品や展示に感動はなかった。個々の作品は悪くないのかもしれないが、その集合体としてみたとき、あまりに脆弱過ぎる気がした。

「マイクロポップ」の説明を読んでいると「カオスラウンジ」との共通点がけっこうある気がします。例えば「社会的無名性や経済力の欠如を力に変える」ことや「ドローイングが主要な表現方法」であったり「60年代的ポップ表現のリバイバル」が見られたり…。たとえば「カオスラウンジ」にあった作品が、そのまま「ウィンターガーデン」に飾ってあってもそこまで違和感はないんだと思う。



先の講義の最後に、自分は松井さんに「展覧会を構成する作品に、観客を「行動」に結びつけるような力がないように思うのですが、あると思っていますか?」という質問をした。このとき松井さんはかなりムッとしていた(質問の内容以前にこの聞き方に問題があるのだが)。

このとき私の発言した「行動」という言葉を、松井さんは「政治的活動としての行動」と判断して答えを返してきた。自分の意図としては、「行動」という言葉はもう少しユルい意味として使っていて、「あー、良い作品をみたな。自分も頑張ろう。」とかその程度のことだった。それこそ、松井さんが最後に言っているように「人のこころに今までに無い感覚を起こさせるというのは、芸術にとってできる最も効果的な世界の変革なんじゃないかなと思っています」とほぼ同じ意味で、自分は「行動」という言葉を使っていた。

自分は水戸芸術館「マイクロポップの時代」や、原美術館「ウィンターガーデン」を見て、ぜんぜん自分のなかに変革は起きなかった。むしろちょっとムカついたんです。たしかに現代の姿を提示しているかもしれないが、あそこには未来がなかった。なんだか自分たちの世代やこの時代がバカにされている気がしました。(とうぜん松井さんにその意図は全くないことはわかっているけれど…。)(というか、マイクロポップは周りが騒ぎすぎたと思う。そもそも元・文学少女のマニアックなセンスなんて一般大衆に理解できるわけないだろが!)

「カオスラウンジ」での既視感とは、「マイクロポップ」のをみたときの「コンセプトは理解できるけど作品はそーでもないな」っていうところかもしれません。でも「カオスラウンジ」は、ちょっとキャリアがあるキュレーターが若い作家を集めて「これからの時代はこうです」っていうんじゃなくて、若い世代の人が、無名に近い同じくらいの世代の人を集めて「これからの時代はこうだぜ」っていう周囲を巻き込んで吸収していくようなウネリ、その「祭り」感に惹かれたんだと思います。



あの伝説的なユーストリームの中で一番忘れられないのは「向こう側」の話をし始めたときの梅ラボさんです。美術に対して真剣で真面目で、自分の言葉で喋ろうとしていて思わず応援してしまった。

同時に、自分たちの世代の弱点は、純粋で優しすぎることかもしれないとも思った。chim↑pomにしたって「ピカッ」までは悪童としてやっていたけど、「なぜ広島の空をピカッとさせてはいけないのか」を読む限りでは、彼らは自分たちとなんら変わりない、むしろとても正直で真面目な人たちだったということがわかってしまった。自分たちが受けてきた学校教育や社会生活のなかで、自分たちは「叫びかた」を去勢されてるんじゃないか。

個人的な話で恐縮ですが、自分の大学院の卒業制作の講評会での失敗も、そこらへんの「何か」を信じ過ぎていたことだったと思う。ちょっと良い話をして、理解を得ようとしてしまった。それがダメだった。あのときの教授陣たちのまるきり冷めた目の中でパフォーマンスした経験は忘れられない。「お前らの作品はクソだ、いつまでも高度経済成長期やバブル時代の成功体験を引きずったままのアーティスト気取りが大学の給料で偉そうにしやがって!」そう言って卒業するのが正解だったといまでも後悔している。尊敬の意を込めて死んでくださいと。けっきょく大人はわかってくれないんです。

「カオスラウンジ」はいよいよ村上隆の手を離れて動き始めたんだと思います。カオスラウンジ参加メンバーのツイッターでのポストをみても最近イキイキしてる気がします。何様と思われるかもしれませんが、やっと地に足がついたようにみえます。個人的にはあまり美術界という狭い世界での評価を気にしないほうがいいのかなとも思いますが、ま、わかりません。ここまで数回にわたって「カオスラウンジ」をネタにしておいて、いまさら「頑張れ」とか「応援してる」とか言える立場じゃないですし。でも、次ですよね。次こけたら、もう、ないです。ここまできたなら、もう行くとこまで行った姿がみてみたいです。



とりあえずこれで自分のカオスラウンジについてのインプレッションは終ります。
好き勝手書いてごめんなさい。