2011 年 9 月

飲み会彫刻

思い出横丁のたにぐちくん主催の「飲み会彫刻 vol.2」にフラッと参加してきまんた。

場所は飯田橋にある「文明」という、たにぐちくんその他が借りているフリースペース。
元居酒屋という空間だけあって、天井から菅野美穂のNUDITY(3.11でも落ちなかったらしい)に見つめられたりして、とても犯罪の香りがする空間でした。なんかファイトクラブみたいだった。

菅野美穂


ちなみに飲み会彫刻とは

「飲み会彫刻とは、酒を飲みながら身の回りにある割り箸やコップやお皿やつまみ等で彫刻を作る会(ワークショップ?)です。作品が出来たら写真を撮ってtumblrにアップして、それを肴にまた酒を飲みます。」

だそうです。(http://nomikai-sculpture.tumblr.com/aboutから引用)



こんな机上。


安い材料で写真撮ったらすぐ壊すとはいえ、やっぱいちおう制作しながら「これいいかも」とか「ちょっと違うな」とか思うわけじゃないですか。バランスとか。写真の構図とか。
とはいってもお酒も飲んでるし「まあ別にこんなんでいいだろ」って最終的にぶん投げる感じ。そんで写真をみて「あ、結構自分の作品イケてるかも」って心の中で思って、また飲んで制作。


講師的な視点から見ると、この材料にとくに制限がなく、良い作品を作らなきゃいけないっていうプレッシャーを感じずに楽しく手を動かせるっていうのはすごく良いですね。モチーフも美大受験っぽい。

空間構成はもちろん、素材の特性、総合的なバランス感覚、発想力、写真の構図、その場のノリ、ぶん投げるテキトーさ、色んなことが身につきそうです。

これ、ほんとカリキュラムに組み込みたいけど「酒を飲む」ってところがハードル高い。
むしろ違法。



今回、自分が作ったなかでいちばん気に入ったのはこれかなあ。



アルミホイルと目玉クリップ。
もう少し撮影の角度をナナメからにすれば良かった。


今回の参加者みんなの作品はタンブラーではなくここで見られるそうです

技術

前の記事の最後で「技術」って言葉を使ったんだけど。

「技術」ってなにかって問われれば、「何度やっても同じ結果が得られる」ということです。
「たまに上手にできる」とか「50%の確立で成功する」っていうのは技術を身につけたことにはなりませんよね。(それでは「時の運」とか「丁半博打」と呼ばれるものです。)

と、いかにも知ったように書いているけれど、ぼくが「技術」って言葉の意味を認識したのはほんの数ヶ月前のこと。
「何度やっても同じ結果が得られる」というのは僕が考えたことではなくて岡崎乾二郎の「芸術の設計」という本から得たことです。それは意訳で、いま本を読み返して原文を見つけたので引用します。

「同じく人の持つ技術が技術たりえるのは、その特定の仕事、行為の反復可能性、持続性が保たれるゆえにである。たまたまゴールが決まったのではなく、いつでもゴールできることがサッカーのフォワードの技術であるように、つねに同じ結果をもたらすことができる能力こそが技術である。」


この本ではさらに、
「ハトは飛ぶ技術を持っている」「ヒトは呼吸する技術を持つ」という言い方をしないことから「技術が先天的なものではなく、後天的なに、後から獲得されるものである」と述べています。つまり「技術」とは必然的なものではないということでもあり、たやすく忘却され、失われる可能性を持つ、とも述べています。


こういうのを在学中に理解しておけば課題や制作に対してもう少し違うアプローチもあったのかなとちょっと思ったんだよね。


芸術の設計―見る/作ることのアプリケーション

私感

今日が30才の誕生日です。
30才になったからといって突然なにかが変わるわけではありません。

でもやっぱ30代っていうと大した年齢です。
客観的に30才という年齢を考えたときに、自分がその年齢に相応しい生活や態度をしているかというとそうは思えません。
なので、30代になって何かが変わるというよりは、むしろ30代だから変えていかないとな、という気持ちです。

いま仕事で担当しているクラスは今年18才になる高校3年生の人たちです。
ということはまるまる12才差ということで自分と干支が一緒なんですね。
いまどきの高校生はみんな大人です。
さすがに三十路からみればまだちょっと幼い部分もあるけれど、基本的に真面目で、目の前の課題に対してしっかり取り組む。とても客観的に自分のこと見てる。自分が18才のときなんてもっとアタマ沸いてたから本当にすごいなあと思う。

自分が予備校通い始めた=美術の世界に足を突っ込んだのも12年前の高校3年生のとき。ちょうど一回りしたんだな、当時まだ幼稚園生だった子たちを指導してるんだなと思うと感慨深い。

美術の予備校を始めて訪れてから12年経ったけど、自分は3浪したし、学部4年通ってさらに大学院2年行ったし、それだけで9年。卒業してからは通っていた予備校やら地元の高校で働き始めて3年目。で、計12年。だからほんと、環境的には(ヤバいくらい)何も変わってる感じがしない。


まあそんな話はどうでもいいんだ。


学生時代(大学3年、6年前)のときの作品に今でもコンスタントにコメントが付く。
その内容はディスられてるものも多いけど、そういうのを含めて嬉しいことだと感じる。褒められてるのも、けなされてるのも、同等に嬉しい。

感覚としては、作り終えて講評会で発表した瞬間に完全に自分の手を離れた作品だから、もはや遠い昔に巣立った我が子を見ているような気分。「ああ、まだこの作品はどこかで生きてるんだな」と。
そのほかにもいくつかは学生時代に制作はしたけど、けっきょく自分が作品と言えるものはこれだけかな。


と同時にこの作品で失敗したと思っていることがある。
それはあまりにも実際の自分自身の経験を作品に使ってしまったということ。

自分自身の体験をそのまま作品化してしまうのは焼き畑農業みたいなものだ。
自分のなかの闇の部分、すなわち長年蓄積してきたコンプレックスを全て焼き尽くしてしまう。一度はやってもいい。それなりの作品ができるかもしれない。でもそれは一回やってしまうと次の作品を制作することは難しい。同じ手は使えない。おそらく次の作品まで10年なり20年なり時間がかかる。一発屋で終わることもあるだろう。

そういう制作の仕方ではプロにはなれないのだ。

いま自分が仕事で教えているのは主に受験生だけど、もし自分が大学生にアドバイスするとしたら「自分をテーマにした作品は絶対に制作するな」ってこと。もっと「技術」でモノを作れって。自分を作品に使うのは自分を消費していくだけだぞ。


いいたいことはまだあるけど、いいや。
いま朝の4時半なので寝ます。






バス

高校の仕事に行くときは神奈中バスを利用する。
駅前の始発のバス停から乗車するので、先に座る人がいなければいちばんまえの左の座席に座ることが多い。バスの大きなフロントガラスを前面に、さながらドライブをしている気分になるので。

で、その席に座るたびに思わずにいられないのは乗車口の汚さ。
といってもホコリや泥などで汚れているわけではなくて、デザインが汚い。





こんな感じで文字と矢印だらけ…。この写真内に10個くらい矢印が写ってます。
確かに視線を誘導するのに矢印は便利だけども、優先順位もわからず、矢印のカタチも統一されておらず、文字情報も氾濫していてデザインとしては最低の部類だと思う。

視覚的なデザインも良くないんだけど、バスの乗車システム自体の複雑さがある。
バスによって先払い方式と後払い方式がある。区間によって扉の開く位置が違う。一律料金の区間もある。両替しなくてもおつりが出るタイプもある。乗車と降車でICカードのタッチする場所が違う…など。

バスの乗客には通院や買い物の際に利用する老人や障がい者、それと初めてその土地を訪れるような一見さんも多いのだけど、そういう現状に対してあまりに乗車のシステムは複雑。きわめてハイコンテクスト。

乗車の際のICカードのタッチ忘れ、おつりが出ると思ってお金を入れたら出なかった、1万円札しかなくて両替ができず小銭もなくてどうしましょう?……などのトラブルで運転手に叱責されてる乗客の姿を降車口でよく見かける。

なんでそんなこともわからないんだと言わんばかりに運転手は高圧的な態度で乗客を責めるけども、どう考えてもバスのシステムのほうが優しくない。(なんでバスの運転手は客商売にも関わらず言葉遣いが荒い人が多いんだろう?)

いろいろ書いたけど、バスの乗降システムや乗降口あたりのデザインはもっとシンプルになればいいのにって思います。

せっかくデザイナーが頑張ってデザインしても後付けでいろいろ足されていくことって多いんだろうな。JRの構内なんかもそうだけど【雨 漏 り 注 意】【右 側 通 行】みたいなのが、ガムテープでベターっと。ああいうの、景観という意味からすればほんと酷い。

ま、あんまり文句いうと、お前のブログのデザインどうなん?とか、ブーメランしてくるのでほどほどに。しょうがないよね、人間だもの。おわり。






あとこれ全然関係ないんだけど、地震のあと箱根を訪れる客が少なくなったとき小田急の駅に貼ってあったポスター。4月くらいかな?1色刷りで急遽つくった感じがすごいする。でも結構カッコいいと思う。箱根ともなんとも書いてないんだけど。なんか潔くていいなと。会社として作ったのか、駅員がつくったのかわからないけど。




金沢21世紀美術館(後)「art-ZINE」「ピーターマクドナルド 訪問者」



金沢21世紀美術館のデザインギャラリーでart-ZINEの展示がやってた。ZINEってこいうものなんですよ、っていう広報的な展示かな。いろんな種類のZINEがおいてあった。アーティストから小学生のものまで。

僕自身もパラペラparaperaの存在なんかを話には身近には聞きながら、こういったZINEの展示や販売会などにはいったことがなかった。

ZINEが並んだ様子はカッコいいし、手にとってみてみるとホチキスでとめてあるだけなのにオシャレな存在感。自分でも作りたいなって思ったし、あとは高校の学生に課題で作ってもらっても面白そう。オシャレだから内容なんてなくてもいいと思うな。むしろそんな味わって読まないしね。

フライヤーが大きさ・素材の違う3枚の紙の端をミシンで縫った手作り仕様でかっこ良かった。おもわず4枚もらってきてしまった。


ギャラリー内は写真撮影不可だったからギャラリーの外から撮影してみた。





さらにもひとつ「Peter McDonald 訪問者」っていう展示がやってた。
ピーターマクドナルドの画集は何年か前に買った。仕事用以外では画集ってあんまり買わないけど、ピーターマクドナルドの絵はなんか好きだったから。

今回はふたつの会場を使っていて、ひとつはキャンバス?紙?に描かれたものを壁面に飾っていて、もうひとつの部屋では四面の壁に描かれた壁画。どっちも良かったけど、壁画のほうがダイナミック。自分も驚いたし、あとから入ってきたお客さんもみんな「すごーい」って驚いてた。


おわかりでしょうか、このスケール。こんな感じで4面。左にいる女性はまったくの無関係です。


こっちはもうひとつの部屋の展示の写真。


実物は、画集でみる以上に不思議だったね。変。謎。たぶんちょっと頭おかしい人だと思う。見ることができて良かった。


このあと金沢番外編で今回行った寿司屋について書いてたんだけど、語れば語るほど薄っぺらくなってる気がしてぜんぶ消去した。というわけで金沢篇はこれにて終了です。