わたしは元気ですか?

そんなもんダヨーンに書かれてることは古谷利裕氏と批評理論研究所のブログのやり取りを引用したナベタンからのアンサーソングということでよろしかったでしょうか?

もう!ナベタンったらぜんぜん女心を理解できてないんだから!
あなたはいつもそうやって自分の手は汚さずに知的にふるまって、人よりも優位に立とうとしてるのだわ!

となぜかオネエ喋り調になってしまいましたが、アート落伍者の自己憐憫に対しての反応としてはまったく正しく、おそらくもし自分以外の誰かがああいうことをブログに書いてたら自分も同じようなことを思うだろう。

行動する人間からみれば、行動しない人間の批判的な言葉は、駄々をこねる子供の言葉のようなもの。いちいち相手にしていたら埒があかないので、一笑に付して片付けるのが精神衛生的に健全です。




そんなことを書いていてふと気になって読み直した文章がある。

それは以前このエントリにも書いたように、以前、多摩美の特別講演で松井みどりさんに「マイクロポップの作品には観客を『行動』に結びつけるような力がないように思う」という質問をしたときの松井さんの返答。(そしてこの返答はナベタンのタンブラーから拝借)。

「あると思います。そもそも「行動」の定義が私とあなたとでは異なるようですが、行動って言うのはどういう意味なのでしょうか。選挙で投票するってことですか?麻生さんじゃなくて、東国原さんに投票するってことですか?だいたい「行動を起こす」というときは、政治的だったり社会的な行動を起こすことを指す場合が多いと思いますが、それはそれでやって良いと思います。良いと思いますが、それは美術の中でやらなければならないことでしょうか。もちろん、美術の中にも人を行動に向かわせるような作品もあります。(以下、島袋道浩「人間性回復のチャンス」(1995年)の説明なので中略)私が考える人を行動に向かわせる作品というのはこのような作品です。私は作品に触れた人の発想や気持ちを変えるというだけで、人を行動に向かわせる作品だと思っています。それ以上の社会的な活動というのは、当然重要なことですが、美術の領域とは直接の関係はないと思います。ただ、これはとても難しい問題です。私が専攻していた英米文学においても、テキストの中だけを向いている文学はあまり興味がありませんでした。というのは表現というのは作者が生きている時代に結びついていなければいけないと考えていたからです。ただ、それがあまりにもベタなかたちで、リアリズム的な方向で、プロパガンダ的に表現されているものは文学ではないとも考えていたんです。ものすごく美的で神秘的な態度と、ある意味ベタなくらい政治的な態度の間に「芸術」というものは存在していて、芸術の本質的な目的は、それに触れた人の思考とか感覚を変えることじゃないでしょうか。そうでなければ実際の政治活動に出た方が、芸術なんかでチンタラやってるより、よっぽど効果的じゃないでしょうか。効果がないことをやるのは偽善です。ともあれ、人のこころに今までに無い感覚を起こさせるというのは、芸術にとってできる最も効果的な世界の変革なんじゃないかなと思っています。」


「芸術なんかでチンタラやってる」「芸術なんかでチンタラやってる」「芸術なんかでチンタラやってる」……
なんかグルグル回ってる。

あたいバカなんでもう少し考えてみます。
ではまた。