足下が寒い(冬だから)
Eテレで「100分de名著」という番組がやっており、視聴したことはないのだが、おそらくそれは100分で名著を解説番組と思われる(調べてみたら実際は週25分づつ4回、毎月ごとに1冊読み下すそうです)。
本屋で語学番組のコーナーに行くとこの番組のテキストがよく平積みされており、たとえばマキャベリだったりドラッカーだったり宮沢賢治だったり、まあ多種多様な人物の著作を取り上げているわけではあるが、今月の著作は兼行「徒然草」。
その第一回めの小見出しが『「何者でもなかった人」の観察眼 』。
それはちょうど最近まで放映されていた「輪るピングドラム」(面白かったですし、その後17年越しにオウムの平田容疑者が出頭してきたのもどこか象徴的ですね)の作中の台詞「きっと何者にもなれないお前たちに告げる」を彷彿とさせ、時期を同じくして違ったところから耳に挟んだ「何者でもない」ということについて考えてしまうのです。
徒然草は批評の原点である、というようなことを昔聞いた。「何者でもない」からでこその審美眼というのもあるのだろう。いまやインターネットを見渡せば匿名のそういったものが溢れている。
予備校講師というのは画家だとかフリーランスのデザイナーだったりだとかアーティストだったりだとかそれぞれ本職を持っているのが普通だが、自分にはそれがない。つまり、美大出身のそこらへんのアラサー(無職)が予備校講師をしているのとあまり変わらないのである。
それを言ったら学校の美術の先生だって美術の先生なので、予備校の先生が単なる予備校の先生だっていいじゃないか。とか。先生っていうのは何者でもない人物がやるから先生なんだ。とか。自己弁護の言葉もいくつかは浮かぶ。
だが美術の世界は基本的に徒弟制度であり、技術の伝授によって培われている世界だ。
そういう世界でこの何者でもなさというのは、生徒からしてみたらやっぱりうさんくさいと思うのだが、そうです、先生のうさんくささに気がつける大人になってください。そもそも世界なんていうのはうさんくさいものの集合体ですから、そういう中から真実と思えるものだけをあなたがたは信じてください。
で、なんの話だっけ。
まあ無理矢理徒然草と自分の仕事を結びつけて結論づける必要もないのだが、例えばデザイナーやアーティストなど軸足を持っている人はそれを中心に指導すればいいし、自分の場合はむしろ「何者でもなさ」を利用していかなければと思う受験一ヶ月まえなのであった。
あと、本当はこんな記事を書きたいんじゃなくて、ただ徒然草の解説担当「古文のマドンナ」こと荻野文子さんの肩書きが「予備校講師・文筆家」と書いてあって、その世を捨てている感じの肩書きが最高にカッコいいなって、ただそんだけを言いたかったんです。(まじで)
アンサイクロペディアの項目も笑えます。