2013 年 12 月

本業

自分が大学生の頃よく出席していたゼミで、教授から「君の本業はなんだ?」という質問をよくされた。
学生の頃は上手に答えられなかった。確かに情報デザイン学科というところに在籍していたけれど、デザイナーともアーティストとも言い切れない自分がいた。作家もどきみたいな気分でいたけれど、作家として生きる覚悟はなかった。自分の作品をつくるより、確実にお金を稼ぎたかった。

そういうこともあって、予備校講師として働いて生活している以上、いま「あなたの本業はなんだ?」と問われたらきちんと「予備校講師です」と言えるようにしたいと思っている。

親には「予備校の講師」という職業はよく思われていない。「そんなのしがみつくような職業じゃないでしょ、正社員で働きなさい」って。
まあ、親に限らず、一般的にみれば予備校の講師なんて言うものは止まり木のようなもので、一生続けるようなものでもないかもしれない。実際、予備校の講師の多くの人々がそう思っていると思う。特に美術の場合は、大学教授になるか、美術作家として食べられるようになるまでの一時的な職業と考えているか、フリーランスの貴重な安定収入と考えている人も少なくないはず。

それでもなかにはプロフェッショナルな講師もいて尊敬する。
O美のSさんとか、KアトリエのNさんとか、S美のEさんとか。「本業:予備校講師」を全うしていてプロだと思う。


とくにオチはない

某/力

某週刊誌で某デザイナーの某暴力ことが取り上げられている。
真偽のほどは定かではないが、噂では何度か聞いたことがある。そういった醜聞はたいがい尾ひれがついて広まるものだが…。

そのデザイナーのことに限らず、デザイン業界残酷物語みたいな話はよく聞く。
さすがに株式上場企業に勤めている人から(残業とセクハラ以外の)暴力の話は聞かないが、制作系の会社だと入社試験で女性に「仕事と結婚どっち選ぶの?」って質問したりとか、1週間で「もう来なくていいよ!」って辞めさせられたとか、会社まで徒歩の通勤圏内に家を借りて午前様&数日間泊まり込み&コンビニ飯は当たり前とか、辞めるときに「この業界で生きれなくしてやるぞ」といわれたりだとか、ここまで様々なエピソードを聞く限り、そういった業界のダークサイドがないわけがなく、キレイごとで成り立っている世界ではないことは明らか。
(このエピソードはいちおう僕が本人から聞いたことあるものですが、主観まじりの愚痴だったりするので、正確ではないかもしれません)





デザイン事務所に限らず、昔の美術の予備校では学生に向かって講師がモノを投げるとか、イスを蹴り上げるみたいなこともあったとも聞く。さすがに今では直接的な暴力はどこもしていないはずだが、小中規模の予備校では高校生を夜遅くまで残して絵を描かせるとか、人格否定されるような発言を受けたりだとか、そういう噂はたまに聞く。予備校業界の結果主義がまねく、結果が出ればなんでもありの世界だという認識はまだかすかに残っている。

と、いいつつも僕はそれを否定できる立場にない。当然モノを投げるとかイスを蹴り上げるみたいなことはしていないが、なにが暴力になるかは、むしろ受け取る側に委ねられているからだ。僕が天命に誓って暴力はしていないと言い張っても、もしかしたら、これまでの講評などで暴力と受け止められるような発言をしているかもしれないし、これまで実際ずいぶんとキツいことを言ってきたと思う。





こういった話の難しいところは、一般的には暴力と受け止められるようなことでも、本人がそれを受け入れているケースもあるということだ。
美術というのは基本的に昔から師匠と弟子という徒弟制度で成り立っているから、弟子が師匠を敬っていれば、多少の暴言とゲンコツなら、暴力というよりもむしろ愛として捉えられることもありえる。結局のところ、この人について行けるか行けないかというマッチングの問題で、どちらかが絶対的に悪い、とは言い切れない話になってしまう。

とはいえ最近では部活における体罰やドメスティックバイオレンスの問題もあり、どういう関係であれ暴力で人をコントロールするやりかたは絶対的にしてはいけない行為という認識が広まった現在ではこの考え方はもはやひと昔前の考え方でもある。





モノをつくるということは…クライアントからお金をもらって仕事しているということは…イイモノを作らないといけない。
デザインやモノ作りに対して責任感が強い人は、己を犠牲にしているのだ。とくに規模の大きくない会社は社長やボスがいちばん身を削っていて、それと同じくらい身を削って仕事することを部下に求めている。納期と金に追われるデザイン業界はつねに弱肉強食、残る者のみが残る世界であって、自分を犠牲に出来る人間が強い。そのテンションについて行ける人もいるし、ついて行けない人もいるわけで、そのモチベーションの差に軋轢が生まれるのだろう。






ぜんぜん関係ないけどこれ聞くと涙でてくる。

この時期、メディア芸術祭や広告賞の受賞者発表なんかで、大学や予備校時代の同級生やら後輩の名前を目にする機会が増える。

言葉では「おめでとう」「すごいね」などといいつつも、やはり嫉妬するのが人間というもの。自分は30才を越えて、ようやくそこまでの嫉妬や焦りを感じないようになった気がする。私は私、他者は他者という線引きがある程度できるようになったからだ。

自分は長い浪人生活で何人も何人も天才だと思える人を見てきた。しかし、そのみんながみんな有名になってイケイケに活躍しているわけでもない。もちろん大活躍している人もいるが、ある人は企業のデザイナーとして日々ストレスと戦い、ある人は子供ができて現場作業員をしていて、ある人は専門学校の講師をしながら作家活動を続け、ある人はバイトをしながらイラストレータをしている。当時あれほど天才的だと思った人々も、決して順風満帆に進んでいるわけではない。日々、地道に生活をしているのだ。

賞というのはその道で努力を重ねてきた結果として与えられるわけだし、自分も自分の目の前の仕事を頑張るしかない。予備校の仕事に賞レースはないが、とにかく自分にどこまでやりきれるのか確かめたいと思っている。





とはいえ、かつてはアトリエを同じくしていた人々が活躍している姿をみると、やはり考えてしまう部分はある。
人に認められたいという気持ちがまったくない人間なんていない。とくに美術の世界には。
いったい自分は今後どうしたいのかということを、知り合いたちの活躍を横目に見ながら考えてしまう。
美大受験には詳しくても、自分の人生についてはまるで素人同然でしかないのだ。

かぐや姫の物語

仕事が結構忙しくて、ホントは朝から出勤しなきゃいけないくらいなんだけど、風邪気味で体調も良くないし、連勤が続いてちょっと疲れちゃったし…というわけで気分転換に昼過ぎの新宿で「かぐや姫の物語」をみてきた。

ブログを更新してないあいだ、当然「風立ちぬ」とか「まどかマギカ」も見てるし、今だと「キルラキル」とか「弱虫ペダル」とか面白いっスよねみたいな感じなんだけど、インターネット上では自分よりももっと頭のいい誰かがすぐにその作品について言葉にしてくれるから、自分が書いたり考える必要もなかった。





「かぐや姫の物語」もそういう映画…のはずだった。
ツイッターとかだと「そのまんま竹取物語」とか「退屈」っていう感想もあって、そこまで期待はしてなかった。でも、けっこう面白くて観てる途中で「なんだよ面白いじゃん!」って思った。最後のほうは自然と泣いてしまった。サラッとしつつも簡単ではない、丁寧で良くできた映画だと思った。

それでもこの開店休業状態のブログを更新するほどの感動はなくて、確かに消化しきれないところもあったんだけどそう深くは考えないでまあツイッターで「かぐや姫の物語、良かった」なんてつぶやいておけばいいかなって思った。んだけど、一緒に見た知人が上映後「この映画、死人でそうだよね」とつぶやいたのがきっかけで、この作品について自分の中でモヤッとしたところがあることに気がつき、なにがしか自分の言葉で整理をつける必要が出てきた。





観終わった直後は動きとか、表情とか、音楽とか、アニメーションとしてのディティールに感動していた。悲しい物語で泣いたしね。
それで新宿ピカデリーの地下のMUJIカフェで茶をしばこうとしたら、知人が開口一番に「この映画、死人でそうだよね」という言葉を発した。
どういうことかあまり理解できなかったからその知人に「どういうこと?」って聞いたら「だって、自殺する人の思考回路と一緒じゃん、かぐや姫」って答えが返ってきた。その予想しなかった返答に「うーん、そういう見方があったのか」とハッとした。





月に還る=地球で経験した感情や記憶がなくなる=死、と考えれば、ようはかぐや姫の物語って「この世に生を受けて、楽しいことなんかもあったけど、そのうち親や周囲に翻弄されながらいろんな汚れたものをみたりして、孤独を深め、だれも自分の孤独を理解してくれることはなく、そのうち自分のなにげない言葉で人を傷つけたりしてしまって、周囲の人は懸命に自分に良くしてくれようとしてくれるんだけど、やっぱりもう限界で、本当は死にたくないんだけど、もう自分は死ぬしかないんです」っていう話として捉えられる気がした。

宮崎駿がもののけ姫の「生きろ」や風立ちぬの「生きねば」のようになにがなんでも「自らの意志で生きていくこと」にこだわるのに対して、高畑勲は直球に「自らの意志で死を選択すること」を描いているなと思った。





思い返せば「平成狸合戦ぽんぽこ」では工事現場の作業員が死ぬことが当時の自分には軽くショックだった。通例、ああいうノリのアニメでは、大怪我とかはあるにせよ、人が死ぬという直接的な描写はないから。タヌキが死ぬシーンもあるし。
そして「思ひ出ぽろぽろ」では幼心に「なんで家族は主人公に対してこんなに冷たいんだろう」と感じた。あれもやっぱりショックだった。疎外感の描き方がリアルで、アニメなのに救われない。

ぽんぽこのコピーである「どっこい生きている」を「色んな苦悩はあるけれど、生きるという選択をした」という風に捉えるとするならば、かぐや姫の物語は「色んな苦悩があって、死を選択してしまった」という風にも受け取れる。どちらが正しいとかではなくて、人生にはこういう選択もある、と。

かぐや姫の物語は残酷で救いがない。「生きるために生まれてきた」ことに気がついたときには時すでに遅く、自らの選択に対して悔いを残しながら終わる。

直接的に描かれることはないけど、かぐや姫の犯した「罪と罰」ってのは、罪っていうのは地球の暮らしとか感情とかに興味を持っちゃったことで、罰っていうのは地球で暮らすことで、最後のお迎えは「ほら、やっぱ無理だったやろ」っていう。でもあの感じだと、あそこでお迎えが来なくても、きっとまたどこかでかぐや姫は挫折しそう。死(お迎え)が確定しているからでこそ、地球での暮らしを最後に肯定できたんじゃないかな。





自分はそんな感じで「かぐや姫の物語」受け止めました。

翁が権力に弱かったり、求婚者たちが滑稽だったり、捨丸が妻子ある立場ながらもかぐや姫と逃げ出そうとしたり、男の汚い部分が突きつけられてて痛かった。そもそもかぐや姫が月に還りたいって思ったのも、権力がある男の空気読まない行動が原因!そう、この世の穢れはぜんぶ男!でもそれが現世!っていう。

「風立ちぬ」と同時公開してたら…と思うとちょっと残念だけど、「風立ちぬ」と「かぐや姫の物語」が同時に上映された世界、それこそマジで死人でそう。