2014 年 9 月

ふたつの良いモノ

きょう初めて絵を買った。


これまで友達から交換でポスターを貰ったり、プレゼントとして貰ったり、お小遣い程度のお金を払って制作してもらったり、小物を買ったり、ということはあったけれど、いわゆる絵具でペイントされた「絵」を買うというのは初めての経験じゃないかな。


買ったのは予備校の同僚の作家の作品で、ごく小さい作品を、ふたつ。
いちおう正規の売値とはいえ、そのクオリティからすればずいぶんと破格な値段設定だった。
展示に行くまでは買うつもりはまったくなかったんだけど、実物をみたら「これは買わないと…」と思ってしまった。


作品の売れ行きが上々でも本人は「儲からない」と言っていて、あの作業量じゃ当然だろうと思う。
なんだか悪いなーとおもいつつも、その値段だから気兼ねなく買えたのも事実。
値切ったわけじゃないから、と自分に言い聞かせています。


展示が終わり次第引き渡しなので、まだ手元にはない。
届くのが楽しみ。





それで家に帰ったら宅急便で誕生日プレゼントが届いていた。


小さなドライフラワーやワックスペーパーの包装紙をはがしていくと、ズッシリとした木の板が入っていた。
付属の説明文を読むと、なんでもオリーブの木でできたいわゆる『まな板』らしい。
まな板といっても、包丁を受けるやつというよりかは、よくレストランとかでハムやパンが乗ってくるようなアレ。


たとえ雑貨屋で見かけていいなーと思っても絶対自分で買わないモノなんだけど、そういったものが自宅にあると、やっぱり安物や大量生産品にはない存在感があって、うっとりする。


リクエストを出して買ってもらう実用的なプレゼントもいいけれど、突然届くこういう予期せぬ「バグ」のようなプレゼントは自分にない価値観の風穴を開けてくれる。





そんなわけできょうはそういうふたつの良いモノを手に入れました。
という報告でした。

芸術の残骸

父の遺品整理で戸惑ったものはたくさんある。


例えばレコードとCDとMP3が聞けるような未使用のオーディオ機器だとか、充電器の見当たらないしょぼいデジタルカメラ、ダイソンのサイクロン風の掃除機。
どれもこれも決して詐欺とは言わないまでも、判断力の鈍った老人を商売相手にした通信販売の鉄板商品。
それがいざ身内の家にあると、恥ずかしいような悲しいような気持ちになる。
それらは分割払いを終えていないぶんの払い込み用紙が玄関に置かれ、父の死後も支払い続けなければならなかった。


段ボール数箱ぶんの大量のレコード。とうぜん封を開けていないものもたくさんあった。
どこかに持ち込めば多少の小遣いにはなったかもしれないが、そんな余裕はなかった。捨てる際、ジャケットは燃えるゴミ、中のビニールとレコードはプラごみ(?)に分別せねばならず、とても面倒だったことが印象深い。ちなみに上記で支払いを終えていなかったたいそう立派な昭和歌謡曲集も全部捨てた。


何十年も前の登山用具。
登山靴、アイゼン、寝袋類。記載されているブランドをみてみればそれなりにきちんとしたものだということはわかったが、古くて汚くて再利用できるようなものでもない。金属と布が固定されたテントのようなものはいったい何ゴミなのか。


プラスチックの収納ケースやカラーボックス。皆もよく覚えておいてほしい。これらの本や衣類を収納するために重宝する家具は、捨てるときに場所をとって大変だ。とくに数が何十ともなれば。





スプレー式洗剤。中身をすべて出し切る必要がある。流しが泡だらけになるし、ずっとスプレーを押しっぱなしにするのは意外と手が疲れる。


レンガやブロック。建築資材といわれるものは、数が多いとゴミ集積場で引き取ってもらえない場合がある。


そしてこれは特殊かもしれないが、精神に異常がある従姉から預かったままの木彫りの仏像や仏具。


これは本来私たち遺族がそのまま預からなければいけないものだった。
しかしそのあと家の中でみかけないことからおそらく母が処分したのだと思う。
また、その仏具と同じ箱に保管されていた、丁寧に布ばりされた写真アルバムには若かりし従姉の写真が収められていた。残念ながら、その美しい織り模様の布地には父の住居の異様な匂いが染み付いており、しかも私たち遺族にとってその従姉はほぼ他人にすぎないので、これもこっそり処分してしまった。


ほかにも、カピカピに白くカビを吹いた梅が入ったままの梅酒びん、私が生まれたときから家にあったマムシが瓶詰めにされた一升びん。
大量のハンガー。ハンガーラック。ほうきやデッキブラシ。段ボール。布団。すのこ。ゴミ箱。そういうものがベランダを含め、いたるところに散乱し、詰め込まれていた。


唯一、かつて病院で調理師・栄養士をしていた父らしく、冷蔵庫のなかだけは、私たちの家よりもよほど整理整頓されていた。使い切れなかった食材たちにきちんとラップがかけられ、スッキリと並べられていたのである。


すでにその部屋の主は冷暗所で横たわっているのにも関わらず、残された部屋はまだ息をしているかのように生々しい。
父が生きた痕跡を辿るように、そして無にしていくため、私たちは淡々と作業を続けたのである。





父は写真が好きだった。
同居していた頃、よくカメラ雑誌に投稿していたことを覚えている。
花や風景を撮るのが好きだったようだ。


一方で、私がそのカメラに触らせてもらった記憶はない。
しっかりとしたアルミケースに収められたカメラは「大切なものだから」と子供たちは手を触れてはいけないものだった。


父が遺した写真の多くは風景や花といったものだったが、それは遺されたものにとってはあまり価値のある写真ではなかった。死んだ祖父や祖母、今の自分よりも若い母、そういった写真のみが私たちにとっては貴重だった。写真雑誌に載るために撮られたような花の写真はまったく価値のあるものではなかった。そういう写真はすべて捨てた。


当時、母に無断でボーナスを全部突っ込んで買った8mmフィルムやスライドフィルム、また自家編集のビデオテープやCD、カセットテープの類も容赦なく捨ててしまった。
どれも生前の父が家族よりも大切にしていたものだった。





父がもっとも大切にしていたものは大量の本だ。


戦中戦後の混乱した時期に生まれ金もなく無学だった父が渇望したもの、もしくはそのコンプレックスを隠すために必要だったものが本だった。


彼のなかで本から得られる知識や、小説や文学といった知的な香りのするものは、やはり特別なものだったに違いない。


父は死ぬまで小説家になることを夢見ていた。
私が幼い頃から父の部屋の枕元にはアルコールと青いペンと原稿用紙が置かれていた。
父が最期を迎えた家でも、当時と同じように、本人以外は到底読めないような文字で書かれた原稿が遺されていた。


そしてまだ結婚をする前の父が仕事をしながら同僚と作った同人小説の雑誌も数冊発見した。
父はペンネームで寄稿していた。青臭さを感じるペンネームだった。
場末の酒場の女の話を書いていた。期待して少し読んだものの、なにも面白くはなかった。
1冊か2冊の同人誌は兄が引き受け、本棚に収められた本や、原稿はすべて捨ててしまった。





小説や写真といった遺された芸術の残骸。
写真家にも小説家にも、そして父親にも、何者にもなれなかった父。


所有する土地を全て売り払い移住したサイパン。
第二次世界大戦のため強制帰還を余儀なくされ、かつて自分の土地だったところで野焼きをしていた父の家族。
倉庫で首を吊って自殺した祖父。
自殺した祖父(つまり父の実父)を最初に発見した幼い父。
その後無一文で福島から上京し、母と出会うまでの人生で、父の人生にはいったいなにがあって、何を考えていたのだろうか?
何も聞けずに終わった。何も聞けずに終わると思っていたが、本当に何も聞けずに終わってしまった。


父と進路や人生、仕事や趣味、そういうことを話した記憶は全くない。
私が父とどのように話してわからなかったように、おそらく父も私とどのように話していいのかわからなかったに違いない。
ただ、電話口で「好きなことをやれ」とは何度か言われた記憶がある。
そう言い残した父は、その74年に生涯において好きなことをやれたのか?
幸せだったのか?





じつは父が死んだと推定される日、私たちが住む家に何度か無言電話がかかってきていた。
午後3時、たまたま予備校に出勤する前の私と、仕事から帰ってきた母が同じタイミングで家にいた時刻だった。
1、2回目は母が、3、4回目は私が受話器を取った。電話口の向こうからまったく声は聞こえなかった。
いたずら電話だと思った私は、最後に多少荒い調子で「もしもーし!」と怒鳴って電話を切ってしまったのだが、もしも電話口の向こうに、心臓の痛みを訴えかけようと苦しみ悶え、こちらの声は聞こえながら自身の声を発することはできず、そしてこの世の最後に実の息子から「もしもーし!」という言葉を聞いて力尽きてしまった父がいたとしたらと思うと、本当に人生は……。





いまから思えば父は写したり録音したり記録することが好きだったのかもしれない。
しかし私たち家族は父の遺したものをすべて捨ててしまった。
最後に残ったものは骨と(保険)金だけ。


古いアルバムに収められた小さいモノクロ写真の中では、いまの自分よりずっと若い父が一本の木の下ではにかんでいた。
棺桶の中の父の顔はとても小さく、鼻先が青紫色に変色していた。

いまや骨となった父は、生前撮影された姪や甥と一緒に写った写真とともに、現在はIKEAのテレビ台の一角で、家族と一緒に暮らしている。


(未完)

父は死にました

5月後半、もう少しBlogを更新していこうとした矢先、父が死んだ。74才だった。


とはいえ、もう自分が中学2年生くらいのときから父とは別居しており、その間に会った回数は片手で数えられるほどか、そうでないしろ両方の手の指があれば十分だ。


動脈硬化による突然死。発見されたときにはすでに死後2日〜3日経過がしていた。
シルバーセンターの同僚が、これまで無断欠勤をしたことがない父が数日に渡ってなんの連絡もなしに休んだことを不審に思い、警察に連絡をした。そして管理会社立ち会いのもとに父は布団の上でうつぶせの状態で発見されたという。


私は母からのメールで父の死を知った。
参宮橋の駅のホームで電車を待っていたときのことだった。
予備校の仕事を終え、沼田友くんのアニメーション上映会「伝える」へ行こうとしていた矢先だった。


「○○(父の名前) ご臨終!
遺体確認に××警察に行ってきます」



母からのメールはずいぶんとあっさりとした内容だった。
酒癖の悪かった父に対し、母は私が物心ついたときから「早く死んでくれればいいのに」と言っていたし、その度を超えた飲酒がたたって父はこの数ヶ月前から心臓の不調を訴えていたので、来るべきときが来ただけ、という感覚なのだろう。


私も私で「えー?!」と瞬間的に思ったくらいで、肉親が死ぬという初めての出来事に驚き方がわからなかったのか、それとももはや顔もはっきりと思い出せない父が他人のように思えていたのか、なにも驚きがなかった。私の家族はたぶん皆同じような感覚だったと思う。父は死ぬまえから私たち家族のなかで父として死んでいた。





私が父と最後に会ったのはいつだったかもう思い出せない。この10年でおそらく2回ほどだ。
時間系列としてどちらが先だったかもう定かではないが、1回は私たちが住むマンションの周りを全身黒づくめの不審者ががうろついていると思ったら、それが父だった。どうやら親戚一同我が家に集まって食事会をする約束をしていたらしい。私はその食事会には参加をしなかったので、ちらりと顔を会わせただけだ。


もう1回は私たちの住むマンションの近くを自転車で通ったからという理由で、突然訪れてきた。夏の暑い日だった思う。
そのときは私ひとりしか家におらず、話をせざるを得ない状況だった。何を話したかはもう覚えていない。
私が成長するほどに父とはどのように話していいのかわからなかったので、とにかくその場を父と子の関係でやり過ごすことを考えていたのかもしれない。


ただ、つば付きのキャップにマラソンランナーのようなスポーティーなサングラス、原色系のウェア、100均で売っているような盗難防止のチェーンを何本も身につけており、ずいぶんとファンキーな格好をしていたことは覚えている。この肌が黒くやせ細った、背の小さい(父は150cm半ばくらいしかない)、まるで森に棲むホビットのような、そしてこの壊滅的なファッションセンスの男が私の父。その事実に戦慄した覚えがある。





私たち遺族は遺品整理のため父の住居を訪れ、そのゴミ屋敷のような家を目の当たりにし、驚愕するのである。


そこは築数十年、小高い丘の上に立つ市営の集合住宅。定年退職し、死を待つ老人たちが夫婦で、または独り身で慎ましく暮らす団地だ。街を眺めることができ、やさしい風が吹いていた。その団地では頻繁に孤独死する老人が見つかり、現に私たち遺族が訪れた日も、隣の棟でやはり父と同じく孤独死した老人が見つかっていた。


父が住んでいたところは1階だった。駐車場側に面した柵付きの窓には、その柵がみえなくなるくらい大量に赤やオレンジの造花が固定されており、そのあっけらかんと明るい色彩は、古く寂れた団地のなかでまったく空気が読めておらず、かえって不気味にみえた。


2LDKの室内は足の踏み場もないくらいのモノで埋め尽くされていた。
どこからか拾ってきた椅子、棚、机、衣類、工具、そしてゴミの山…。さらには通信販売で買ったと思われる未使用の掃除機やカメラ、ビデオ、ステレオ、CD、DVD、レコード、洗剤類。そして大量の本。形容しがたい湿った匂いで充満し、踏み場をつくるためにモノをどけると、床はゴキブリの糞のような小さく黒い固まりが散乱していた。


業者に頼もうと見積もりを出すと最低でも50万円はかかるとのことだった。
父の死によって得られる保険金を少しでも手中に収めるため、高さが60cm〜80cmほどある大型のスピーカー数台や、それを置いていた台の破壊など大型ゴミの処理を10万円ぶんだけ業者に頼み、その他は親戚の協力のもと、大人たちが平均1日4.5人、レンタカーで大型のバンを借りてゴミ清掃局を5往復、3日間に渡りやっとキレイに片付けることができたのである。業者に50万円と提示されたとき、最初はぼったくりではないかと疑った金額だったが、終わってみれば納得できる金額だった。





父には数百万円の保険金がかけられていた。
以前から保険をかけてはお金が必要になったら解約して…ということを繰り返していたが、父の死を見越した母が、ここ数年はやや高額な死亡保険をかけていたのである。そのぶん当然毎月の支払い金額も多くなる。なので父が死んだとき母が口にしたのは「賭けに勝ったわね」であった。今回心筋梗塞ということで突然死んでしまったが、肉体的にはまだまだピンピンしていたので、「あの人は80才か、もしかしたら100才くらいまでは生きてしまうかも」という話を私たち家族はよくしていたものだ。


私たち兄弟が「××、死んじゃったんだ」という儀礼的な言葉のつぎに口にしたのは「で、保険金は?」であった。
(ちなみに私の家族で父や母を「父さん・母さん」「パパ・ママ」「親父・お袋」と呼んだことは幼いときの数年間をのぞき全くなく、基本的には母も父も下の名前で呼び捨てである。)


兄弟が3人おり、さらに母、親戚たちで分配すれば、その数百万の保険金もわずかである。
結果的には、私たち兄弟はだいたい100万ずつ手にすることとなった。ただ私はそれに加えて、奨学金の一部を補填してもらえることになった。
そもそも10年前、私立美大に入学し高額な授業料を払うにあたって計画していたことは「奨学金を借りて父の保険金で返還する」ということだったので、当初の予定通りである。


それでもまだまだ奨学金は残っているのだが……。

作品って触っちゃいけなかったのか(結)

5.雰囲気,気分,ムード


そして落書き事件が起こった最終的な〈トリガー〉は、やはりあの会場内の「雰囲気」であるだろう。
私がBCTIONが単なる展示とは違って面白いと思ったのは、やはりあの都心のビルを丸々使用したアンダーグラウンドな雰囲気と、およそ普通の美術展ではみかけないような人々が多かったからである。そこはさながら音楽とタバコと酒とタトゥーが溢れる、深夜のクラブのような空間であった。


反発もあるだろうが、私はあの「ノリ」だったら作品に危害が加えられることは、仕方がないことだとも思ったのだ。


クラブのトイレにいくら嘔吐やタバコ禁止などといった注意書きが書いてあってもそれが厳守されることは難しいように、あの空間の「雰囲気」で美術のルールが守られることは難しい。もしもあの場所で美術作品を美術作品として扱う必要があったのであれば、やはりもっと厳重に扱うか、そもそもが「あそこに展示するべき作品ではなかった」のだ。デュシャン以降の美術史、現代美術においては、美術作品はその制度や場所性が大きな役割を果たしているのだから。


タバコと酒を手にして身内でたむろすることが許されている一方、鑑賞者には一般的な美術展としてモラルを求めるのはスジがない話だと思っている。もっともそれは主催者たちの中でもいろいろな価値観の交錯があったのかもしれないが……。






またしても島貫泰介氏の引用になってしまうが、私が言いたいことはここに集約されている。
日本においてあれほどまでに新しさを感じさせる展示だったのだから、「バグ」をも含めて許容するだけのゆとりをみせて欲しかったと、私は思ったのである。




おわりに



ステッカーなどで注意喚起したのにも関わらず、作品に不本意な形で手が加えられてしまったことは嘆かわしいことである。
大切につくってきた展示だからでこそ、作家にしろ主催者/関係者がああいった反応を示すことも理解できる。
時間やお金といった制約を乗り越える行動力は私ごときが批判できるものではないし、なによりBCTION全体を通じて私はあまり日本では見ることは出来ない類の新しさを感じ、率直にとても面白い展示だと思ったのである。


それだけに今回こういった「バグ」に対し、まず作家が「アホ」という言葉を使い、主催者/関係者が単なる「破壊行為」というところで思考を止めてしまったように思えたことが残念だった。「バグ」というのは予期せぬエラーに対して使われる言葉であるが、その「バグ」の原因についてもっと考えて欲しかったという期待があったのだ。





反論のためにこのブログを書き初めたわけではなく、最初にも述べたように、これは自分のなかで今回の騒動を濾過するために書き始めた文章である。反論に反論を重ねていく不毛な流れにならないように、書き始めてからはあまり主催者/関係者のブログを読み返していない。そしてこの一連のブログに終わりが見えてきた先ほど、再度読み直したところ、主催者/関係者とあまり考え方に違いはないのじゃないかとも感じている。


数日間にわたりずいぶんと無様ことを書き綴ってしまった。


私は戦争がしたいのではなくて、お互いがお互いの不理解について不快に思うかもしれないが、どうにか乗り越えていきたいという、あくまで一連の内容についてが真摯に書いたつもりである。作家や関係者たちにネタとして扱われることは仕方がないことではある。それならそれでいい。


正直なところブログという場所で書いている限り、私にもこの気持ちを誰かに理解してほしいという気持ちがあるのは真実であるし、この問題提起(というほどカッコいいものではない)が、私と関係者以外の目についてくれれば、あとは第三者たちによって判断が下されるであろう。


スキャンダラスによって作品が注目されるのではなく、作品の内容で注目されることを願って。

(完)

補足(今後必要に応じて書き足すかもしれません)


・私がBCTIONに足を運んだとき、すでに数本あるスプレー缶の先から内容物が噴出されていた。私はその状況は落書き事件が起こったときの状況のまま残してあるかと思っていた。その上で「かっこいいじゃん」とTwitterでつぶやいたのだが、関係者のブログで落書き事件が起こった当時の写真を見る限りどうやらそれは修復後であったようだ。その様子をみればたしかに作家の言うところ「センスのない」落書きである。しかし、これまで述べてきたことからこれは必然とまでは言わないまでも、予期される出来事だったのである。


・BCTIONを観ていないでブログを見ている人もいると思います。このようなブログに賛同をしてくれる人もほんの少しだけいるとは思うのですが、やはり展示を見たうえで今回の騒動について考えてほしいのです。9月27日と28日に再公開されるそうなんで、ぜひ皆さんも観てください。なるべく、色眼鏡なしで。。。
http://peatix.com/event/48732

作品って触っちゃいけなかったのか(後)

今回は「たよりない現実、この世界の在りか」のほかに、もうひとつ自身の経験を通じて鑑賞者が「作品に介入」するときの心理について考察していきたい。


3.作品に介入するときの心理


2014年6月、渋谷でインターネット上の秘密結社「IDPW(あいぱす)」によって、「ソーシャル麻婆豆腐」という展示が行われた。

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展示の詳しい内容はその性質上割愛するものの、会場に足を踏み入れた瞬間、そのプロフィールウェブサイトのごとく、あまりに人を食ったような展示内容に怒りが込み上げてきた。

暑い渋谷の中を地図を見ながら歩き、ちょっとした坂を上り、やっと行き着いたところは一見そこで展示が行われてるとは思えないようなオフィスビルであった。そうやってわざわざ訪れた場所でああいう展示を見せられることは作品の理解よりも怒りが先にこみ上げてきたのである。


怒ったからといって、そこで展示会場や作品を破壊するといったような直接的な暴力行為には及ぶことはできない。
しかしやり場のない気持ちもあるのは事実である……。
会場を見渡すと、入り口のところに鑑賞者が操作可能なデバイスとして音声ガイド(iPod touch)が2台置かれていた。


正直に告白しよう。

私は最初、瞬間的に「このiPod touchを持って帰ろう」と思ったのである。
当然私はiPod touchが欲しかったわけではない。このやり場のない怒りをどうにかしたかったのだ。


「こんな人をバカにしたような展示を見せておいて、そっちがそういう気なら、こっちだってやってやるさ…」という意識である。
「ある意味で鑑賞者を試すような展示をみせるなら、こちらだって作者を試したって自由なはず」、そう考えたのである。
幸いなことに(?)、会場に私の行動を制限する監視員はいなかったのである。


しかし冷静に考えればiPod touchを持ち帰ったからといって私が一時的に「ざまあみやがれ」と思うだけで、主催者、その後に訪れる鑑賞者、誰も得しない結果で終わるだろう。そもそも窃盗なので小心者の私などは犯行がバレないかドキドキして眠れなくなるに違いない。そう考え、iPod touchを持ち帰るのは社会的倫理と理性の元にやめたのである。


冷静になれば展示自体はとてもユニークで、示唆に富んだ内容であった。
会場を出るときにはすでに怒りは収まっていたのだが、最後に私はそのiPod touchにある操作を施した…。


そのiPod touchはすでにあらかじめ音声ガイドのためのアプリケーション(?)が立ち上がっていたが、ホームボタンを押すとホーム画面にいくつかのアプリが表示されたのである。
展示に足を踏み入れたときのバカにされたような感情の「お返し」に、なにかできないかと液晶画面を見渡すと、ボイスメモというアプリがみつかったのである。
もしかしてそのアプリにも何かネタが仕込んであるのかも、と一瞬期待したのだが、数ヶ月前に録音された思わしき全く無関係の音声がデータとして残されているだけであった。


そこで私は「たよりない現実、この世界の在りか」のときと同様、周囲に人がいないことを確認し(なんだか隙あれば作品に手を出そうとする変な人みたいですが)、そのボイスメモに自分のiPhoneから再生した、展示にも関係した「ある音楽」を録音したのである。そして元の音声ガイドの画面に戻し、会場を後にした次第である。


私自身の心理としては会期終了後、録音した音楽に気がついて貰えればコミュニケーションが成立し、無視されようが怒ろうがいかなるリアクションでも良かった。展示自体に大きな影響はなく、それがその展示で私が許された唯一の行動だったからである。または永遠に気がつかなくてもよかった。少なくとも結果的にそれはだれにも迷惑をかけていないということなのだから。私は私の感じた怒りに対してなにかアクションを起こせたことに満足したのである。





私の行動は褒められるものではない。もしかしたらiPod touchに規定外の操作を行ったことで音声ガイドを壊した可能性もあるだろう。
しかしiPod touchの機能は制限されておらず、そのことに関してなにも注意がされていなかったことから、許されていたとは言わないまでも作品の一部に介入することが「可能」だったのだ。


「理解の範疇を越えたもの」「自分からは理解できないもの」を「アート」として提示されたとき、人は「こんなものがアートなのか?」と反発し、拒否反応を起こしたり、怒ったりする。そう、作品のネガティブな反応には「無視をする」のほかにも「怒り」ということもあるということだ。その「怒り」をぶつけるにあたっての妥協点が、あの落書きやiPadでのアダルトサイトの表示に繋がったのではないだろうか。作家が落書き行為に怒る前に、むしろ鑑賞者が先に作品に怒りを覚えていたのが先だとも考えることはできないだろうか。


そういった経験から私なりの推論をいえば、iPadでアダルトサイトを表示したり、スプレーで落書きした犯人は ただ操作可能だからといってyang02氏の作品に手を出したわけではない。おそらく、あの小部屋に入ったとき、yang02氏の作品を理解しようとはしたのだ。しかし、それがどういった意味を持つ作品なのかは理解することができなかった。アートとして認識できないどころか、そういうものをアートとして提示されている事実に「ムカついた」のである。そして目の前には操作可能なデバイスやスプレーがあり、なるべく物理的破壊をしない方法で鑑賞者は反抗をしようとしたのである。




4.作品の暴力性


さらに落書き事件が起こってしまった原因について述べていく。


今回展示されていたyang02氏の作品を私はあまりきちんと見ていない。
最終日の夕方ということもあって会場全体が混んでおり、じっくり見るような雰囲気ではなかったということもあるし、そもそも事前の予備知識なしにyang02の作品を理解することができなかったからである。
その作品の内容(iPadで音声を拾ってTwitterに投稿する作品?)を知ったのは関係者のブログを通じてである。実のところ、今でもきちんと理解できていない。


展示されている小部屋には二度、足を運んだ。


一度目は「これが落書きされたりiPadでいたずらされた作品か」と思いながら見たものの、しばらく鑑賞しても意味がわからなかったので部屋を出た。


二度目は一通り会場をまわった後、もう少しちゃんと見たほうがいいのかなと思い、もう一度立ち寄った。そのときは数人がiPad付近で鑑賞中であった。
私はその数人の鑑賞者の様子をみていたのだが、私が一度目に訪れたときと同じような様子で、作品を理解しようとしつつも戸惑っているように思えた。誰も作品のシステムを理解しているようにはみえなかったし、目の前の作品が正常に動作しているかどうかもわからなかった。そうして鑑賞者たちを観察し、1分ほどで部屋を出たのである。


作品には直感的に理解ができる作品と、ある程度の知識がないと理解できない作品とがある。


個人的に今回のBCTIONの展示でいえば、yang02氏のプッシャーとしてフォローをしているQue Houxo氏の作品は直感的に理解できる作品である。そしてあのBCTIONという展示においてシンボルのような作品であったとも思う。


液晶モニターの上にペインティングというのは既視感のある表現だとは感じたものの、モニターという平面から発せられ瞬間的に変化するRGBの光と、表面に固着する物質の関係の問いかけについて、視覚的に完結していた。それが作家のテーマを汲み取れているかどうかは別として、そこにアート作品としての疑問を持つ余地なかったのである。


対してyang02氏の展示作品は、説明を受けないと理解できない性質の作品である。
視覚的にはiPad、カセットデッキ、ケーブル、スプレー、プロジェクター、という現代的デバイスと前時代的音響装置とアナログな描写道具が接続されており、さらには壁面にはTwitterが表示されている。それらはお互いなんらかの関係性を持っていることは想像できても、鑑賞者からしてみれば視覚的に完結するタイプの作品ではなく、直感的には理解できない類いの作品である。





8月頃、「たよりない現実、この世界の在りか」の話題がTwitterで盛り上がっていたころ、黒瀬陽平氏が以下のようなツイートをしていた。




「暴力」という言葉は便利な言葉なので、安易に使うのは危険だとも思っている。私は「暴力」という言葉が適切なのか判断保留にしたままこのツイート内容を頭の片隅に残していたのだが、いまこうやって作家と鑑賞者の意識の関係について考え始めてみれば、なるほど意味合いとしては理解できるのである。(それが黒瀬氏の思っているような意味合いで理解しているかは別の話として。)


アーティストが作品を発表するというのは少なからず他者に「知ってほしい」「理解してほしい」「認めてほしい」というエゴイズムが含まれる(もし含まれないというなら発表せずに作り続ければ良いのである)。見たくなければ見なくていい、という意見もあろうが、今回のBCTIONのような展示ではむしろ鑑賞者のほうこそ予期せぬ作品と突然出会ってしまうこともある。突如出会ってしまった作品から自らの価値観を殴られる場合もあるし、または中指を立てられているような感覚に陥ることもあるだろう。





yang02氏の作品はグラフティやストリートアートを踏襲しているので、会場内に多く見られた他の作品と親和性を持っている。さらにはTwitterの画面を表示しているので一見したところキャッチーではある。が、その実、電子工作やプログラミング、システム構成といったテクニックこそが作品の根幹になっている。メディアアートへの理解と知識と寛容さがなければ「なぜこれがアートなの?」とアメリア・アレナスのような問いを発してしまうのは無理もない作品だったとはいえないだろうか。


yang02氏の作品は何も言わずして数多くの鑑賞者と正しい関係性をもてる平和的な作品ではない。これは彼の作品を否定しているわけではない。暴力性こそが時代の先端(エッジ)として新しい価値観を作り出していくことも事実であるからだ。しかし、もしそういった作品を最初から万人がアートとして認識して接することを望んでいるならば、むしろいかにその作品が保守的で、アートの名の下に権威的なのかということを自ら公表しているようなものである。


(まだ終わりません。続く。)