先生はえらい

先日(ひとつきくらい前)に内田樹「先生はえらい」という本を読んだ。高校の図書室で何気なく目についたので借りてみた。

「先生はえらい」というタイトルの本を教員が借りるのはアレだけど、内田樹という著者がこのようなタイトル通りの内容を書くわけがなく、ひとことでいえば「先生とはなにか」ということについて書かれていた。

全文引用したいくらい面白い本なんだけど、いくつかセンテンスを抜粋。



尊敬できる先生というのは、「恋人」に似ています。…(略)…恋愛というのは「はたはたいろいろ言うけれど、私にはこの人がとても素敵に見える」という客観的判断の断固たる無視の上にしか成立しないものです。



学ぶというのは有用な技術や知識を教えてもらうことではありません。
何を言っているのか全然わからなかったゆえに、あなたは彼から本質的なことを学ぶことができたのです。



私たちに深い達成感をもたらす対話というのは、「言いたいこと」や「聴きたいこと」が先にあって、それがことばになって二人の間を行き来したというものではありません。そうでなく、ことばが行き交った後になって、はじめて「言いたかったこと」と「聴きたかったこと」を二人が知った。そういう経験なんです



「失敗する仕方において私たちは独創性を発揮する」


300万円のロレックスって「どうして?」と思うような価格設定ですよね。1万円のスウォッチでも「時間を計る」ということについてはまったくオーケーなわけです。じゃあ299万円は「何の値段」でしょう?
ロレックス社が積算根拠を顧客にあきらかにしたらどうおもうでしょう?「これだけ手をかけているのか。これなら300万円でも少しも高くない」となると、もう誰もロレックス買わないですよ。だって「高くない」んだから。
交易が継続するためには、この代価でこの商品を購入したことに対する割り切れなさが残る必要があるのです。交換をするのは有用な財を手に入れるからではなく、交換することそれ自体が愉しいからである。これが私の考えです。



そして印象深かったのが、

先生は卓越した技術や知識をもっている必要がない。その人がいったい何を知っているのか私たちには想像が及ばない先生、「先生の中には私には決して到達できない境位がある」ということに実感するときにのみ弟子たちは震えるような敬意を感じる。

夏目漱石が「先生」の条件として挙げているのは二つだけです。一つは「なんだかよくわからない人」であること、一つは「ある種の満たされなさに取り憑かれた人」であること、この二つです。




などなど。
いまこの記事書いてるの、家を出る数分前とかでぜんぜんうまくまとめられてないんだけど、「先生はえらい」気になった人はググってみてください。

ではまた。

メゾンエルメス「ライアン・ガンダー展  墜ちるイカロス 失われた展覧会」

銀座のメゾンエルメスで上記の展覧会をみてきた。

メゾンエルメスはとても好きな空間で訪れるたびホッとする。

メゾンエルメスはアートがなんであるかを知っている。
休日に家族や恋人となにかのついでにフラッと訪れ、目の前の作品について何かを語りあい、リッチな空間で少しだけ知的な気分を味わう。
魂を揺さぶられることはないが、アートの役割を知っているように思える。

メゾンエルメスは天井が高く自然光がたっぷりとはいる。
とてもオシャレなので、そこにペヤングソース焼きそばがひっくり返っていてもそれがアートにみえてしまう空間だ。
エルメスが「どうですか、これがアートです」とお膳立てをしているから鑑賞者は「なぜこれがアートなの」というアメリア・アレナスのような疑問を持つ必要がないのだ。エルメスによってそこにあるものはすでにアート認定されているから鑑賞者は安心して観賞できる。
(エルメスというブランドになにも価値を感じない人にとってはそうは思わないのかもしれないが。)

今回の展示も、これが美術館の閉鎖的なホワイトキューブだったら挑発的または説教的にもみえるのだろうが、あの空間にあったことで落ち着いてみることができたのだと思う。作品自体については、色がキレイだったり、面白い見せ方だったり、ああ現代アートだなって。現代アートの展示はこのくらいの見せ方と規模でいい。


あとで書き足すかも。

東京都国立近代美術館「ぬぐ絵画」

先日、東京都国立近代美術館で「ぬぐ絵画」を見てきた(1月15日まで)。

裸の絵画を集めた展覧会。
いちばん記憶に残ったのが安井曾太郎の木炭デッサン。
予備校生の頃、安井曾太郎の人物デッサン集みて「すげーな、どうやったらこんなん描けるんだろうな」って思ってた。
当時は眼前の作品対して「すごい」「上手」という見方しかしておらず、「なぜ作家はそのように描けるのか」「なぜ鑑賞者はそのように見えるのか」「なにが優れているのか」…そういった疑問を持つことはほとんどなかった。

いまは教える立場になって、テクニックとしてある程度は理解できる部分もある。
たとえば背景とモチーフのキワの明度対比だったり、はっきりした輪郭線とぼやけた輪郭線のキメかたの違いなど。
ただその観察眼はやはりテクニックでは説明できないというか、浪人の頃から比べれば色々な作品もみてきたけれど、それでもいまなお感動してしまう。光と空間の捉え方、細部の省略の仕方はやはりいまでも「どうやったらこんな…」と思わずにはいられない。


さいきん村上隆がオマージュ作品を制作したことでも知られる黒田清輝《智・感・情》、これは不思議な絵だった。
絵の横に解説があってより楽しめた。


キャプションの作りや解説文が全体的にそこまで作り込まれていなくて良かった。
なんか気楽にみることができたような気がする。

足下が寒い(冬だから)

Eテレで「100分de名著」という番組がやっており、視聴したことはないのだが、おそらくそれは100分で名著を解説番組と思われる(調べてみたら実際は週25分づつ4回、毎月ごとに1冊読み下すそうです)。

本屋で語学番組のコーナーに行くとこの番組のテキストがよく平積みされており、たとえばマキャベリだったりドラッカーだったり宮沢賢治だったり、まあ多種多様な人物の著作を取り上げているわけではあるが、今月の著作は兼行「徒然草」。

その第一回めの小見出しが『「何者でもなかった人」の観察眼 』。
それはちょうど最近まで放映されていた「輪るピングドラム」(面白かったですし、その後17年越しにオウムの平田容疑者が出頭してきたのもどこか象徴的ですね)の作中の台詞「きっと何者にもなれないお前たちに告げる」を彷彿とさせ、時期を同じくして違ったところから耳に挟んだ「何者でもない」ということについて考えてしまうのです。

徒然草は批評の原点である、というようなことを昔聞いた。「何者でもない」からでこその審美眼というのもあるのだろう。いまやインターネットを見渡せば匿名のそういったものが溢れている。

予備校講師というのは画家だとかフリーランスのデザイナーだったりだとかアーティストだったりだとかそれぞれ本職を持っているのが普通だが、自分にはそれがない。つまり、美大出身のそこらへんのアラサー(無職)が予備校講師をしているのとあまり変わらないのである。

それを言ったら学校の美術の先生だって美術の先生なので、予備校の先生が単なる予備校の先生だっていいじゃないか。とか。先生っていうのは何者でもない人物がやるから先生なんだ。とか。自己弁護の言葉もいくつかは浮かぶ。

だが美術の世界は基本的に徒弟制度であり、技術の伝授によって培われている世界だ。
そういう世界でこの何者でもなさというのは、生徒からしてみたらやっぱりうさんくさいと思うのだが、そうです、先生のうさんくささに気がつける大人になってください。そもそも世界なんていうのはうさんくさいものの集合体ですから、そういう中から真実と思えるものだけをあなたがたは信じてください。

で、なんの話だっけ。

まあ無理矢理徒然草と自分の仕事を結びつけて結論づける必要もないのだが、例えばデザイナーやアーティストなど軸足を持っている人はそれを中心に指導すればいいし、自分の場合はむしろ「何者でもなさ」を利用していかなければと思う受験一ヶ月まえなのであった。


あと、本当はこんな記事を書きたいんじゃなくて、ただ徒然草の解説担当「古文のマドンナ」こと荻野文子さんの肩書きが「予備校講師・文筆家」と書いてあって、その世を捨てている感じの肩書きが最高にカッコいいなって、ただそんだけを言いたかったんです。(まじで)
アンサイクロペディアの項目も笑えます。

雑記

高校と予備校、どちらも可能性のある学生ばかり。
そんな人々の未来に関わってくる仕事だけに受験が近くなってくるこの時期はちょっと緊張する。

この仕事は自分にとって勉強になることが多い。それは美術に関しての勉強だけではない。講師としてどのように授業をデザインしていくか決まった方法があるわけではなく、自分自身の特性やその年度の学生のノリなども含めて試行錯誤ばかりだ。こうやってお仕事頑張ってる風に書いてはいるがいまだに望むような結果が出たことはない。もっと出来るはずなのに怠けているところもある。



予備校は大学に合格という目標を持ったうえで、高校が終わったあとにさらに安くない学費を払って自分の意志で来ているところだから、こちらが統制をとりやすいことは確か。やる気がなければ来る必要はない場所だ。遅刻や作品の未提出があっても「それじゃ大学に合格できないよ」と言えば本人たちも反省する。緊張感のある空気が作りやすい。大人のルールが通用するのだ。

高校は受験倍率もそこそこある美術科の学校とはいえ、やはり高校生にとっては一日の大半を過ごす生活の場。
義務教育ではないとはいえ、課題に対するやる気は学生によってまちまち。画材道具を忘れた、提出期限までに間に合わなかった、課題のプリントをなくした….。そういうことも多々ある。彼らにとっては数ある授業のひとつでしかない。サボりたくなったり、なんのために課題をこなさなければいけないのか目的意識も明確ではない人もいるだろう。



しかし自由な発想で面白い作品が出てくるのは高校のほう。
「なんかよくわかんないけどやりたいようにやってみました」的ないい意味でのテキトーさは時にとてもクリエイティブだ。制作時間もたっぷりある。週1回の授業なので1つの課題に1ヶ月くらいはかけるからだ。家に持ち帰って制作すれば使える時間はほぼ無制限といっていい。

一方、予備校は限られた時間と受験というプレッシャーのなかで学生の描く作品はテクニックに陥りがちだ。絶対に失敗をしない方法を追い求め、気にするのは表面ばかり。それが結果的に遠回りになるとも知らずに!

ただ予備校でも、ときに受験課題とはいえ本当に素晴らしい作品も出てくるし、受験に失敗して浪人した高校生が1年後には見違えるように完成度の上がった作品を描いている光景を見てしまうと(そして人間的にもちょこっと成長していると)、やはり予備校という環境も悪くないと思ってしまう。



美術を教えるにあたって高校と予備校でそれぞれメリットとデメリットがあり、それぞれのメリットを合わせたハイブリッドな教えかたができれば…とも思うのだけれど、現実的には難しいところもある。
なにより普段のぼくは授業で何もしないことで有名なので、学生からしたら「なに偉そうなこと言ってんだこいつ」と思うかもしれません。すいません、まじ調子のりました。

ひとりごとですのであしからず。
ではまた。