
というわけで「ピナバウシュ 夢の教室」をみてきた。
ユーロスペース渋谷は完全なるラブホテル街だった。
最短でいけばそうでもないが、曲がるところを間違えてしまったらホテル街を突っ切っていくことになってしまい、週末のホテル街から出てくる男女、値段を吟味してる男女、さっさと入っていく男女、年齢と容姿があまりに釣り合わない男女、いろいろな様子をみることができて良い社会勉強になった。
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さて。
時期を同じくして公開されている「踊り続けるいのち」は、ヴィム・ベンダースという映画監督と、ヴッパタール舞踊団の熟達したダンサーたちによって、すでに〈存在しない〉ピナバウシュという人物を浮かび上がらせている映画だった。
それに対して「夢の教室」はどこにでもいるような高校生たちが、目の前に〈存在している〉ピナバウシュ、そしてベネディクトとジョーというふたりのダンサーと共に、ダンスを通じて成長していく様を描いている。
指導を受ける高校生たちは当初「できない」「わからない」と口にする。欠席も遅刻もする。演技に仕方に戸惑う。彼らは若さだけが取り柄で、しかし何よりもその若さこそがかけがえのない最大の魅力として映っていた。
高校生たちは人種も、その家族の背景もバラバラだ。
40人もいるなかで特定の人物にスポットが当たりすぎている気はするが約90分という時間を考えると仕方ないだろう。彼らは映画の序盤と後半では目つきが変わる。たくさんの他者と関わりながら身体表現をすることで、他者への信頼と自らへの誇りを得て、成長していく様がみてとれる。
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映画を見ながらほぼ素人の高校生をキャストに使用した映画「エレファント」のことを思い出していた。
ただ与えられたものを演じるだけだったならば幼稚園のお遊戯でしかない。しかしなぜ「夢の教室」や「エレファント」にでてくる高校生が魅力的なのかといえば、演技をすることによって心を晒す術を覚えるからだ。
若く多感な時期は、誰もが心の中に抑圧された気持ちを持っている。それは心の奥底に原子炉があるようなものだ。だが、日常生活においてそのエネルギーを放出する機会はほとんどない。それが身体を使った表現によって心を解放する方法をひとたび覚えると、若者はまばゆく輝き始める。
とりわけ予告編にも映っている工場の爆発で父親を亡くしたという少女は本当に美しかった。モデルような容姿もさることながら、演技中の目が美しかった。
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あとで加筆か修正します。
とりあえずピナバウシュの「踊り続けるいのち」を観たならば、こちらも是非観て欲しいと思います。
2012年4月8日 4:08 PM|
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東京都国立近代美術館で「生誕100年 ジャクソン・ポロック展」を観た。
「ポロック展 感想」でググれば、ためになるブログもたくさん出てくるので詳細はそちらで。
ポロックの名前と絵を初めて知ったのは、高校生の頃。SupreamのボックスロゴTシャツのモチーフとしてポロックの絵が使われていたことがきっかけです。これですね。
その後、上野のMOMA展でポロックの絵の実物をみて「うおおおおおおお」と思った記憶がありまして、その感動をもう一度という気分で出かけたんですが、今回は100周年の回顧展ということで、初期や晩年の絵も含めたポロックの仕事をまとめた包括的な展示でした。
大きいドロッピングの絵が並んでいることを想像して訪れたわけなんですが、そうでもなかったです。色彩もいまみると古くて汚いな…とか思ってしまった。なんて。
そんなわけで期待したポロックとはちょっと違ったんですが、初期の原始美術的なおどろおどろしい作風や、アクションペインティング以前の他の作家に影響されまくりな作風、晩年の黒一色で描かれたブラック・ポーリングのシリーズなど、いろいろ見れて面白かったです。全体的に、暗くて病んでる。
個人的には晩年のブラック・ポーリングがいいなって思いました。でもあのまま生きてたらどうなってたんだろ?抽象をやりきったマレーヴィチが具象に回帰したように、ポロックも晩年は具象的なイメージを描くようになる。しかしその兆候があらわれたところで、故意なのか不慮なのか、事故死してしまった。
でも、初期から通してみると、やっぱポロックは死ぬことが運命づけられていたようにも思えてくる。
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ぜんっぜん関係ないけど、マルジェラの次の秋冬でポロック風ペイントジャーマンスニーカーが出るみたい。ポロックっていうか、ただ垂らしただけのドリッピングだけど。
2012年4月6日 9:24 PM|
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自宅から原美術館に行くには、新宿を経由していかなければならないためちょっと遠く感じる。
山手線に乗ってると恵比寿くらいで嫌になってくる。どの時間に乗ってもそこそこ混んでいるから。
原美術館は品川駅からちょっと歩くし、品川という駅自体ひとりで訪れたところでとくに他に見たい場所があるわけでもなく、個人的に原美術館に行くにはとても気力がいる。終館時刻が早いこともあって、見たかった展示でもタイミングを逃してしまうことが多い。
ま、そんなことはどーでもいい。
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原美術館で「杉本博司 ハダカから被服へ」を観てきた。主にモノクロの写真とテキストで構成された展示だった。
先日の「杉本文楽 曾根崎心中」で使用された人形や、横浜トリエンナーレにておこなわれた三番叟公演で野村萬斎が着用した衣装なども展示されていた。(←どっちも観てないからこのへんコピペです。三番叟とかよくわかってません。)
写真はいつもの通りの杉本博司。ジオラマシリーズや、有名なファッションデザイナーの服を着たマネキンを撮影した美しいモノクロの写真です。作品に添えられたテキストがいつもよりも読みやすく、面白い。むしろ写真のよりもテキストが主体という印象の展示だった。
格好からしてモロにファッション系のお客さんが多く、様々なタイプのカッコマン(死語)を見かけることができたので、そういった意味でもとても楽しめた。
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Twitterには杉本博司を好きじゃないという人も結構いる。金の匂いが強い感じ?どこかインチキくさい感じ?スノッブな感じ?なんとなくわかる気がするけど、むしろぼくは杉本博司のそういうところが好き。もしかしたら日本人の芸術家でいちばん好きなんじゃないかと思う。
村上隆も好きだけど、あれはもう作品を目の前に敬服するしかない完成度がある。それに比べると、杉本博司の作品は美術品として本当に価値があるのかどうなのかわからないところがある。とうぜん写真や立体のクオリティは高いものだけれど、しかし、鑑賞者たちの間で「どうやら杉本博司は有名で高値で素晴らしいから、素晴らしいものなのだ」という認識の元に作品が成り立っているところがあるように思えます。
不可解な部分があるからでこそ魅力的というのは、ロレックスやエルメスのようないわゆる「ブランド」であって、だからぼくみたいな俗物は杉本博司が好きなんだと思う。村上隆の作品には職人的な工芸技術的な要素があるけども、杉本博司はもっと胡散臭いおっさんのようで、そこがたまらない。
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ところで展示をみながらもうひとつ考えたことがあって、それは「藤原ヒロシみたいだな」ということ。
藤原ヒロシといえば「何をしてるかいまいちよくわからないがなぜかエリッククラプトンと仲が良くて金を持ってるファッションカリスマ」というイメージです。
彼がなぜカリスマかといえば、彼の半生について書かれた故・川勝正幸による本「丘の上のパンク」の「時代をエディットする男」というサブタイトルにあるように、エディット(編集)するセンスに長けていたからでしょう。
藤原ヒロシの長けた編集するセンスとは、自らの関わるストリート・ブランドと、エルメスやルイヴィトンといったハイ・ブランドをブログや雑誌連載で並列的に紹介することです。その選択眼は村上隆の運営するKaiKaiKiKiギャラリーにておこなわれた展示「Hi&Lo」でも披露されました。
杉本博司はもともと古美術商だったことも関係するのか、近年では数億年前の化石や、いくらするのかわからないような骨董品、または無価値に等しいようなものを、自らの作品とともに展示をします。そういった、古今東西のものを自分の作品を含めて編集する能力(と若干の胡散臭さ)が藤原ヒロシに似ているなと思いました。
金沢で買った「歴史の歴史」の巻末のテキストを、この記事を書きながらはじめて読んでんだけど、それこそ「収集物と自作の融解」とかドンピシャなことについて触れられていて、もっときちんと調べた上で書けば良かったなって思ったけど、デュシャンとかまで絡んできそうだし、このへんで終わっときます。
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ミュージアムショップで売ってたこのウチワ欲しい。
「うちわ=扇風機(せんぷうき)」ということで、「せん」を「銭」、「き」は取っ手部分の木で表現したダジャレ。杉本博司の自筆で3万だって。「せん」は銭のほかにも何パターンかあるみたいだけど、この「銭」のバージョンがいちばん杉本博司っぽいし、自分っぽくもあるから、けっこう本気で欲しい。いまいち買えないのは紙の部分が数年で劣化しそうだから。

5:20 PM|
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一ヶ月くらい前になるけど、ピナバウシュ率いるブッパタール舞踏団を題材にした映画「Pina/ピナ 踊り続けるいのち」を見た。
→ピナバウシュが亡くなったあと、2010年にブッパタール舞踏団の公演を見たときの感想。
ドキュメンタリーなのかなんなのか、ジャンルとしてはよくわからない。いちおうドキュメンタリーの部類なのだろうが、フィクションともいえる。
見る前は「なぜ3D?」という疑問があったものの、始まってみればまったく気にならない。
3Dメガネの特性として映像が暗くなってしまうのは残念だったが、むしろダンスという生身の人間の動きと存在を表現するにあたり3D映像は効果的に使用されていた。3Dの意味があった。
合計3回ピナバウシュ(ブッパタール舞踏団)の公演をみたことがある。すべて2階席だったからダンサーの顔まで伺い知ることはできなかった。それがこの映画のなかではひとりひとりのダンサーが映し出されるシーンがあるから、どんな人々が踊っていたのか知ることが出来た。(そんなにタイプの女性はいなかった。)
映像の美しさといい、ダンサーたちの肉体といい、音楽といい、とても感動的でかっこいい映画だった。新宿バルト9でまだ公開されてるから、まだ見てない人は興味なくても3Dで早めに見とけって思う。
ここまで書いて気づいたけど、夢の教室のほうも公開されてるのすっかり忘れてた。近日中に見に行きます…。
2012年4月5日 9:53 PM|
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